「片岡仁左衛門 (11代目)」の版間の差分

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 新作にも力を入れ、[[坪内逍遥]]作の『桐一葉』をはじめ『桜時雨』『名工柿右衛門』などを初演。人形浄瑠璃のみの狂言であった「大文字屋」「鰻谷」を歌舞伎化するなど、新しい芝居を作る才能に秀でていた。後継者の育成では、嗣子の千代之助([[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目仁左衛門]])のために私財を投じて[[1912年]](明治45年)「片岡少年俳優養成所」を設立。若手俳優への芸の伝承にも尽くした。初代中村鴈治郎とは一時不仲を噂されるほどの対立関係にあったが、それだけに芸のライバルとして張り合い、互いに研鑚しあっていた。十三代目の著書には、晩年は舞台に競演しプライベートの面でも仲が良かったとある。
 
<blockquote>'''「 あれは父のなくなる前の年でしたか、父が近々引退するらしいと言ううわさがたったことがありました。それを大阪で聞いたおじさん(初代鴈治郎)は、(中略)すぐその足で明舟町の家へ来られ『引退するてほんまか。引退なんかしたらあかん。体もよわるし、今からやめてどうするのや。もっともっと働いてくれな、どもならん。』とまるで怒っているような語気で父に説いていられた姿が、今もまぶたに残っています。『せえへん。せえへん。』と笑いながら答える父に、やっと安どしたように四方山の話をして、定宿の築地の細川に帰られたのは十時近かったと思います」'''(十三代目片岡仁左衛門著 『仁左衛門楽我記』 昭和57年 三月書房)
</blockquote>
                          (十三代目片岡仁左衛門著 『仁左衛門楽我記』 昭和57年 三月書房)
 
 
当り役は、丸本時代物では、『[[仮名手本忠臣蔵]]』九段目の本蔵、『[[菅原伝授手習鑑]]』「道明寺」の[[菅丞相]]並びに「寺子屋」の松王丸、『[[妹背山女庭訓]]』の大判事、『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の弥陀六、『伊賀越道中双六』「沼津」の平作。和事、辛抱立役では『吉田屋』の伊左衛門、『近頃河原の達引』「堀川」の与次郎、「鰻谷」の八郎兵衛、「帯屋」の長右衛門、「吃又」の又平。新作では『桐一葉』の[[片桐且元]]、『桜時雨』の紹由、『名工柿右衛門』の柿右衛門。また『伽羅先代萩』の政岡などの女役もこなした。どの役も至芸と呼ばれるもので、文字通り一代の名優であった。[[三宅周太郎]]の「片岡仁左衛門」の中に、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]の言として、「團菊没後の本当の名人は十一代目仁左衛門だよ。」と説明している。[[岡本綺堂]]は「妹背山」の大判事を評して「いざ段切れのノリになって『倅清舟承れ』以下となると、そのめりはりのうまいいいノドは歌舞伎座の隅々迄鳴り響いた。」(大正6年3月)と絶賛している。
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子に[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目片岡仁左衛門]]、門人に二代目[[河原崎権十郎]]、映画界に転じた[[阪東妻三郎]]、[[片岡千恵蔵]]がいる。
 
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|先代名 = [[片岡仁左衛門 (10代目)|十代目片岡仁左衛門]]
|現代名 = 十一代目
|次代名 = [[片岡仁左衛門 (12代目)|十二代目片岡仁左衛門]]
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[[Category:歌舞伎役者|かたおか にさえもん11]]
[[Category:1858年生|かたおかにさえもん11]]