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元禄15年(1702年)、[[美濃国]][[高須藩]]主[[松平義行]]の四男として生まれた(元禄16年([[1703年]])8月14日生まれとも)。義行には6人の男子がいたが多くは早世し、武雅だけが生き残った。
 
[[元服]]の際、父から一字を与えられて行高と名乗った。本来なら義行の世子となり、高須藩主になるはずであったが、実父の義行は元禄14年([[1701年]])に本家から綱誠十五男の万三郎(のちの義孝)を迎えていたため、武雅は[[享保]]9(1724)年、[[越智松平家]]の[[松平清武]]の養子とされ、同年家督を相続し、館林藩主となる。
 
享保13年(1728年)に27歳で死去。法名:顕徳院。子女を残さなかったため養嗣子として[[松平武元]]が後を継いだ。