「チェウリン」の版間の差分
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'''チェウリン'''
系譜ではイングランドに上陸した最初の西サクソン人たちの首長[[キュンリッチ (ウェセックス王)|キュンリッチ]]の息子にして[[チェルディッチ (ウェセックス王)|チェルディッチ]]の孫とされている。チェウリンの時代に長らくブリトン人と拮抗していた西サクソン人勢力は大攻勢に転じ、チェウリンが没する頃には南イングランドで[[ブリトン人]]が抵抗する地域は数えるほどしかなくなっていた。
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==ブレトワルダ==
後年の[[731年]]頃、[[ノーサンブリア]]の修道士にして年代史家の[[ベーダ]]は、「イングランド教会史」を書いた。これには、世俗的なことだけではなく、アングロサクソン人の歴史に関する多くのことが記されており、その中で「[[ハンバー川]]より南の[[インペリウム]]を保持した7人の王」に関しても触れている。この「インペリウム」を現在の解釈では「宗主権」と訳しているが、チェウリンはベーダの記した列記の2番目に登場する。その中でチェウリンは「サエリン(Caelin)」の綴りで書かれているが同時に、「かの地の人々の言葉ではチャウリン(Caeulin)と呼ばれていた」とも書かれている。ベーダはまた、チェウリンは[[キリスト教徒]]ではなかったと明記しており、最初にキリストに帰依した人物は、チェウリンの時代よりも後年[[ケント王国|ケント]]王の[[エゼルベルト (ケント王)|エゼルベルト]]を「神の国に入られた最初の人物」としている。
アングロサクソン年代記の[[827年]]の項目にベーダの記した列記とほぼ同じ形([[エグバード]]を加えた形で)が載せられている。そしてここでは「[[ブレトワルダ]]」、または「ブリテン島の支配者」として知られていたと明記されており、この表現には、現在に至るまで学術的な関心が寄せられている。これを後年の年代史家の追従的な表現ととらえることもあったが、その称号の中にはっきりとした軍事的な役割があった証拠も挙がっている。
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チェウリンはベーダの列記の2番目に来る人物である。全てのブレトワルダたちの在位帰還は大なり小なり連続して続いているが、最初のブレトワルダであるサセックス王エレと次のウェセックス王チェウリンとの間の50年間の開きがある。この後のブレドワルダたちが空白なしで継続されていることが後世に執筆された年代記の年代が実際のチェウリンの関与したであろうとする年代と食い違っているのではという疑問が生じている。この分析によると、以下の結果が見えてくる。
*[[グレゴリウス1世]]が[[ケント王国|ケント]]王[[エゼルベルト]]に文を送った[[601年]]の時点ですでにエゼルベルトは次のブレトワルダとして覇を唱えていたのは間違いはない。というのは法王たるグレゴリウス1世はケント王国という一地域の王程度に文を送ることはありえないからである。
*年代記では前述のウィバウンダンの戦い([[568年]])にチェウリンはエゼルベルトを敗ったことになっている。すなわち、この戦いはチェウリンとエゼルベルト、新旧のブレトワルダ双方が関わった戦いである。
*エゼルベルトの関わる年代の正確性にも疑問視がされているが、最近の研究でエゼルベルトの治世の始まりは早くても[[580年]]以前ではないとしている。
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