「増田盛次」の版間の差分

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しかし突然徳川家を出奔して、[[大坂城]]に入城する。旧知の士の誘いを受けたものか、理由は未詳である。しかしこのことにより、父長盛は家康より死を賜ることになる。
 
慶長20年(1615年)5月6日[[長宗我部盛親]]隊に属し八尾に進軍。徳川方の[[藤堂高虎]]隊と交戦する。始めは優勢であったが、その後形勢は逆転。長宗我部隊は撤退を余儀なくされる。盛次が[[殿 (軍事用語)|しんがり]]を務めたが、藤堂隊の追撃は激しく、藤堂家臣の[[磯野行尚]]([[浅井家]]に仕えた[[磯野員昌]]の孫)に討ち取られてしまった。
享年不詳。諱字と関ヶ原後すぐに家康に仕えていることから、天正末期から文禄年間には元服していたものと思われ、没年は30代と推測される。