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== 第一次奉直戦争 ==
第一次奉直戦争(1922年4月28日~5月5日)の原因は、'''[[直皖戦争]]'''の勝利の成果に対する分配の不均等と親日親奉的な[[梁士詒]]内閣の不満に起因するものであった。直隷派の[[曹錕]]、呉佩孚に対抗するため、張作霖、[[段祺瑞]]、[[孫文]]は同盟した。張作霖は自身を総司令に、[[孫烈臣]]を副総指令に、[[楊宇延]]を参謀長に任命し、奉天派の軍隊は[[山海関]]に入った。4月29日、第一次奉直戦争が勃発した。直隷派の呉佩孚総司令は7個師団、5個旅団約10万人を指揮し、涿州に駐屯し、[[馮玉祥]]率いる第11師団は瑠璃河、良郷に軍を進め、4月28日は馬厰(左翼)、長辛店(右翼)、霸県(主翼)に軍隊を展開した(固安の戦い、永清の戦い、長辛店の戦い)。激戦の中、両軍の勝敗はつかなかったが、呉佩孚は迂回して奉天派軍の後方に奇襲をかけた。奉天派軍は前後から敵の攻撃を受け、全軍崩壊した。5月4日、直隷派は長辛店、永清、静海を占領した。そこで孫文は北伐をやめ、[[広州市|広州]]に引き返した。<!--却被陈炯明被困于永丰舰-->直隷派が最終的に勝利し、張作霖は山海関の外に退却し、[[秦皇島]]で直隷派海軍の攻撃を受けた。6月、張作霖は東北保安総司令を自任し、「自治」を宣言、海軍と空軍の育成ならびに軍隊の訓練に励んだ。外国の宣教師の調停により秦皇島にあった英国艦上で、双方は停戦した。呉佩孚は[[徐世昌]]に引退を迫り、曹錕は1923年10月賄賂を使い、総統に当選した。
 
== 第二次奉直戦争 ==