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===家臣団の形成===
[[溝口秀勝]]は[[丹羽長秀]]に仕え、[[天正]]9年([[1581年]])、[[若狭国]][[高浜城]]主5000石を給される。それ以前からの家臣は、槍持ちを務め、60石を給されていた入江九左衛門と、天正5年に配下に加わった[[近江国]]浅井郡速水郷出身の速水三右衛門が最古参の家臣。高浜城主になると、旧領主逸見駿河守の遺臣、香川民部、寺井主馬を配下に加える。天正10年、[[織田信長]]が滅ぼされるとその遺臣、加藤清重、坂井式部(数馬の祖)を配下とする。加藤家は後に溝口氏を賜り、溝口内匠家の祖となる。この他、高浜時代に仕官した者は、柿本蔵人、窪田与左衛門、大津、三宅、中西らがいる。窪田与左衛門家は[[元禄]]9年に断絶するが、分家の窪田平兵衛家がのちに家老を務める家系となる。天正12年、[[堀秀政]]の与力として[[加賀国|加賀]]大聖寺四万四千石の領主となると、[[柴田勝家]]の遺臣、[[丹羽秀綱]](四郎兵衛の祖)、脇本仁兵衛を配下とする。
 
[[慶長]]3年([[1598年]])、[[堀秀治]]とともに越後へ移封、新発田藩六万石の領主となると、[[会津藩]]の旧領主[[蒲生氏]]の遺臣、森、奥村、矢代、熊田らを配下とする。彼らは会津衆と呼ばれた。慶長15年、堀家が除封され、[[堀忠俊]]、[[堀直清]]が配流されると、直清の六男主馬助直正(堀丈大夫の祖)を招き入れる。
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===西軍上陸===
閏4月23日、溝口内匠が江戸を出発し、途中西軍に怪しまれ捕えられ[[高田藩|高田]]へ護送され、同じ頃、山崎重三郎も西軍に捕まっていた。京都の窪田平兵衛は寺田惣次郎を派遣し、内匠と山崎は5月20日に釈放されていたが、今度は寺田が高田で捕まっていた。西軍は新発田を完全には信用していなかった。窪田は今度は、貢士相馬作右衛門を高田へ派遣する。貢士は各藩が新政府へ派遣している藩士で、家老の窪田でも勝手に命令できない。新政府弁事務所にかけあって許可をもらい、6月29日相馬を高田に派遣、7月9日に着いた。そこで藩の事情を詳しく述べ、ようやく寺田も釈放された。寺田、相馬はその足で[[柏崎市|柏崎]]まで赴き、[[薩摩国|薩摩]]の参謀[[吉井幸輔]]に会った。吉井は京都の窪田と親しく、新発田の実情もよく知っている人物だった。寺田、相馬は吉井に連れられ[[越後長岡藩|長岡]]にいる[[山県狂介]]、[[黒田了介]]の両参謀とも会った。
*「折から(七月十三日)参謀[[楠田十左衛門]]、新発田人寺田某、相馬某の両人を同道して到着したるが、両人の言ふ処によれば、新発田は賊徒のために迫られて、已むを得ず多少の兵を出したりといえども、もとより王師に抗するの意あるに非ざれば、両人帰郷の上、国内を鎮撫して、王師を迎うることとしたし、とのことにて、果してその言に詐りなければ、敵の背後に上陸すべき軍隊は、一層の便利を得るわけなり。よって吉井は同日、即ち十三日に柏崎に赴き、同処において海軍と、打ち合わせをなすことに決したり」 『越の山風』 山県狂介
 
吉井は二人に密命を伝え、旅券を渡し、新発田へ帰藩させた。7月20日に新発田に到着。
 
黒田了介を総指揮官とする1000余名の上陸部隊は、7月24日[[佐渡島|佐渡]]の小木港に寄港し、夜10時より新発田領太夫浜へ向けて出港した。25日朝、西軍は太夫浜に上陸、新発田城下へも知らせが飛び、藩士島村某の1小隊が上陸地点へ急行し、藩の帰順を伝え、城下へ先導した。半分は新潟方面へ、半分は新発田へ向かった。この夜、溝口半兵衛は、黒田と会談し、藩主が柏崎へ赴き、[[小松宮彰仁親王|仁和寺宮]]に拝謁することによって官軍の疑念を晴らすよう勧められる。
*「市民また自費をなげうち、頗る歓待せり」『新発田藩戊辰始末』
こういう状況だったので新発田藩は、江戸に400人、見附に500人、沼垂に200人派遣しているのに、即座に400人を城下周辺に配備させることができた。民兵達の力に負うところが大きかった。