「ポール・ランド」の版間の差分

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==初期の業績==
彼のキャリア経歴はそれほど華々しいスタート開始をしたわけではなく、初めの仕事は新聞や雑誌にストック・イメージを提供する会社のパート・タイムであった<ref name="heller"/>。学校の課題と仕事の合間をつかってランドは相当な量のポートフォリオを作成している。これは[[ドイツ]]の広告のスタイル、[[ザッハプラカット]] (Sachplakat, object poster)や[[グスタフ・イエンセン]]の影響を受けたものであった。
 
はっきりとユダヤ系と分かる「ペレス・ローゼンバウム」という名前をカムフラージュし、簡単なものにするために名前を変えようと決意するのはこの時期である。ファーストネームは短くして「ポール」とし、叔父から「ランド」という姓を借りることにした。ランドの友人で恊働していたモリス・ヴィソグロード(Morris Wyszogrod)は、「彼は四文字ずつのPaul Randという名がすてきなシンボルになると思っていました。だから彼はポール・ランドになることにしたんです」<ref name="behrens"/>と語っている。[[ロイ・R・ベーレンス]]はランドの新たな名前の重要性を指摘している:「ランドは新しいペルソナを手に入れた。これはその後の多くの業績のブランド・ネームになったもので、つまり彼が一番最初につくりだしたコーポレート・アイデンティティだったのである。そしてこれは最も長持ちしたものだった」<ref name="behrens"/>と指摘している
 
実際にランドは急速に名を挙げるようになる。20代の初めにはすでに国際的な注目を集めるようになり、とりわけデザインの自由を交換条件として無償で請け負った雑誌''Direction''のカバーが評判となった<ref name="heller"/>。ついには[[モホリ=ナジ]]の賞賛も受けている:
 
{{cquote|アメリカの若い世代の中で、ポール・ランドは最も有能な人間のひとりのようだ。[. . .] 彼は自分の住む国から知識と創造性を吸収している画家であり、講師である、産業デザイナーであり、そして広告デザイナーである。詩人の言葉をかたりながらビジネスマンの言語を解する彼は、理想主義者であると同時にリアリスト現実主義者である。必要と機能について熟考している。問題を分析する能力に長けているが、そのファンタジー空想はとどまるところを知らない。<ref name="heller"/>}}
 
ランドが20代の輝かしい活躍で築いた評判は以後衰えることがなかった。むしろ、その後の作品や書いたものがその分野における彼の"éminence grise"(=陰の立役者(éminence grise)としての地位を確立してゆくにつれ、その名声はますます堅固なものとなってゆく。<ref name="beirut2"/>
 
ランドは1950年代から1960年代にかけて制作した企業[[ロゴ]]の分野で一番知られているが、もともと評価されたのは初期のページ・レイアウト(タイプセッティング)の仕事である。1936年、ランドは''Apparel Arts''という雑誌の記念号のページ・レイアウトを任される<ref name="heller"/>。彼の才能は「ありふれた写真をドラマチック劇的な構成に変え、誌面の説得力を大きく増」し、ランドはフルタイムの業務を与えられることになった。さらには''Esquire''誌や''Coronet''誌からアート・ディレクションのオファー注文を呼び込んだ。ランドは、初めは「まだ自分はそうしたレベルに達していない」としてオファー注文を断っていたが、一年後には''Esquire''誌のファッションのページの責任者になることを決意する。このとき若干23歳であった。
 
''Direction''誌のカバーのデザインは、そのころまだ模索中であった「ポール・ランド風」デザインを展開していくための重要なステップ段階となったようである<ref name="heller"/>。1940 年12月号のカバー(英語版本記事の図Aを参照)は、[[有刺鉄線]]のイメージによって戦渦で破壊された贈り物と十字架を現したもので、この雑誌の仕事での「芸術的自由」を端的に示すものになっている。『デザインについて』(''Thoughts on Design'')で、ランドはこれはついて「重要なのは、十字架が、宗教的な含意から解放された純粋な造形として、攻撃的な垂直性(男性性)と、受動的な水平性(女性性)の完璧な融合として表現されることである」と述べている<ref name="rand2">Rand, Paul. ''Thoughts on Design.'' New York: Wittenborn: 1947.</ref>。
 
こうしたやり方で、ランドは普通は「ハイ・アート」の文脈で扱われるテーマを自分のグラフィック・デザインに導入する実験を試みていたのである。この試みは、さらに彼の一生涯をかけた追求である、ヨーロッパのモダニスト現代主義の巨匠たちと自らの実践とを架橋する挑戦へとつながってゆく。
 
==コーポレート・アイデンティティ==
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{{cquote|ランドはほとんど彼ひとりの力でデザインが効果的な道具であるということをビジネス界に納得させてしまった。[. . .] 1950年代から1960年代にかけてデザインをしていた者は、ランドに大きく助けられた。彼はそれが仕事になりうる状況を作ってくれたのだ。彼は誰よりもデザインという職能の地位を向上させることに貢献した。我々は彼のおかげで商業芸術家ではなくてグラフィック・デザイナーになることができたのだ。<ref name="heller"/>}}
 
ランドの仕事を端的にあらわすコーポレート・アイデンティティは彼によって1956年にデザインされたIBMのロゴである。[[マーク・フェーヴァーマン]](Mark Favermann)は、これは「単なるアイデンティティではなく、この企業全体の意識と一般への受容に深く浸透した基本的なデザイン哲学となった」<ref name="favermann">Favermann, Mark. “Two Twentieth-Century Icons.” ''Art New England'' Apr&ndash;May 1997: 15.</ref>と述べている。ロゴは1960年にランド自身によって改変され、1972年にはストライプのものが誕生する。ランドは1970年代初期から1980年代初期にかけてIBMのために梱包材やマーケティングのための資料のデザインも行い、この中であの有名な「アイ(eye=目)、ビー(bee=蜂)、エム(IBMロゴのM)」ポスターも誕生した(英語版本記事の図Bを参照)。[[フォード]]は1960年代にランドに企業ロゴのデザイン見直しを依頼したが、結局、彼によるモダナイズ最新化されたロゴは用いない決定をしている(英語版本記事の図Cを参照)。
 
ランドのロゴ・デザインはシンプルで単純なものだと見なされやすい。彼は『デザイナーの技芸』(''A Designer’s Art'')の中ですでに「オリジナル独自のものやエキサイティング刺激的なものを生み出すためにアイデア自体が難解なものになる必要はない」と指摘している<ref name="rand2"/>。こうしたミニマル最小限志向な理想と、ロゴは「最大限のシンプルさと慎ましさをもってデザインしなければ生き残るものにはならない」<ref name="rand2"/>というランドの理念は、彼のABCテレビのためのロゴ(1962年)に典型的に示されている。
 
ランドは高齢になってからも制作に旺盛で、80年代、90年代に入ってからも多くの重要なコーポレート・アイデンティティを制作し続けた。この中にはひとつのソリューション解決のために10万ドルが支払われたという噂もある<ref name="beirut2"/>。後期の仕事で注目に値するのは[[NeXT]]社のための[[スティーヴ・ジョブズ]]との恊働である。ランドは社名を二行に分けたシンプルな黒い立方体のロゴをデザインし、ジョブズはその視覚的な調和をいたく気に入ったという。これまでのランドの仕事によって喜んだクライアント顧客を挙げるとすれば、ジョブズが筆頭だろう。1996年のランド死去の前、ジョブズはランドを「存命中の最も偉大なグラフィック・デザイナー」と称し<ref name="behrens"/>、またランドの仕事を話題にした1993年のインタビューでは、ジョブズはランドを「私が会った中で最もプロフェッショナル玄人な人間のひとり」、「深い思想家」、「ユニーク個性的アーティスト芸術家」と呼んで極めて高い評価を与えている<ref>外部リンクのインタビュー(YouTube)を参照。</ref>。
 
==影響とそのほかの仕事==
===理論の展開===
多くのスタッフを使っていたこともある一方、ランドは製作プロセス過程の大部分については共有することがなかったが、自分のデザイン思想を明らかにするために書籍をつくることには意欲的だった。ランドの研究熱心さに火をつけたのはおそらくモホリ=ナジで、彼はランドに初めて会ったとき、アート批評を読むことがあるか、と尋ねたという。「ノー」といったランドへのモホリ=ナジの答えは「それは残念だ」だった<ref name="heller"/>。
 
[[スティーヴン・ヘラー]]はこのミーティングの重要性を指摘し、「その時以来、ランドは[[ロジャー・フライ]]や[[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]]、[[ジョン・デューイ]]などの先進的な哲学者や芸術批評家などの本を貪るように読みふけった」と述べている。それらの理論家はランドの仕事に深い影響を与えている。1995年のマイケル・クローガー(Michael Kroeger)とのインタビューでは、いろいろなトピックスに加えて特にデューイの『経験としての芸術』が話題になっている。ランドはデューイの主張を敷衍して以下のように述べている:
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{{cquote|[. . . 『経験としての芸術』は]あらゆる物事に関わってくるので、無関係でいられる対象は無くなります。この本が読まれるのに100年かかった理由はそこにあります。哲学者はいまでもこの本について議論している。この本はいつ読んでも必ず何か発見がある。これは私だけではなく哲学者たちが言っていることです。たとえば今読んで、来年になって再読すれば、また新しい発見があるでしょう。<ref>Kroeger, Michael. Interview with Paul Rand. MK Graphic Design. 8 Feb. 1995. 15 Feb. 2006 <http://www.mkgraphic.com/paulrand.html></ref>}}
 
このように、デューイがランドのグラフィック・デザインの根本的な思想の重要なソースとなっていることはどうやら明らかである。ランドの『デザインについて』のある部分に、デューイの哲学から近代芸術における「機能―美学的完成」へ補助線をひいているくだりがある。ランドが「デザインについて」で押し進めた思想のひとつは、ぼやけたり損傷した後でも認識されるようなグラフィック作品を制作することであった(英語版本記事図Dを参照)。ランドはコーポレート・アイデンティティを制作する際はこのことをひとつの基準に据えていた<ref name="rand2"/>。
 
====批判====
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===モダニストの影響===
ランドのキャリア経歴を通じて核となってきた思想、そして結果的に長い影響力を残すこととなった思想は、彼自身も重きを置いていたモダニスト現代主義の哲学である。ランドは[[ポール・セザンヌ]]から[[ヤン・チヒョルト]]に至までの作品群を賞賛し、つねに彼らの創造とグラフィック・デザインへの展開を架橋しようと試みてきた。『デザイナーの技芸』の中で、ランドはそのつながりについて明確に述べている:
 
{{cquote|印象派からポップ・アートに至まで、平凡な物事やマンガさえもが芸術家の熱狂の栄養源になってきた。セザンヌがリンゴについて試みたこと、[[ピカソ]]がギターについて行ったこと、[[フェルナン・レジェ|レジェ]]が機械について、[[クルト・シュヴィッタース|シュヴィッタース]]がガラクタについて、そして[[デュシャン]]が便器でやったことは、新しいことは大げさなコンセプト概念を当てにしないということだ。これらの芸術家の課題は、日常性を異化することだったのである。<ref name="rand1">Rand, Paul. ''Paul Rand: A Designer’s Art.'' New Haven: Yale University Press, 1985</ref>}}
 
この「日常を異化する」という、一般にロシアのフォルマリズム批評家[[ヴィクトル・シクロフスキー]](Viktor Shklovsky)は帰せられるストラテジーは、ランドのデザインの規準にとって大きな意味を持っていた。たとえば電球のようなありふれた製品のために、コーポレート・アイデンティティを用いて「生き生きとしてオリジナル独自な」パッケージ包装をデザインする、というような[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]]社の課題はその典型的な例である。
 
===アン・ランドとの仕事===