「ポール・ランド」の版間の差分
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==初期の業績==
彼の
はっきりとユダヤ系と分かる「ペレス・ローゼンバウム」という名前を
実際にランドは急速に名を挙げるようになる。20代の初めにはすでに国際的な注目を集めるようになり、とりわけデザインの自由を交換条件として無償で請け負った雑誌''Direction''のカバーが評判となった<ref name="heller"/>。ついには[[モホリ=ナジ]]の賞賛も受けている:
{{cquote|アメリカの若い世代の中で、ポール・ランドは最も有能な人間のひとりのようだ。[. . .] 彼は自分の住む国から知識と創造性を吸収している画家であり、講師である、産業デザイナーであり、そして広告デザイナーである。詩人の言葉をかたりながらビジネスマンの言語を解する彼は、理想主義者であると同時に
ランドが20代の輝かしい活躍で築いた評判は以後衰えることがなかった。むしろ、その後の作品や書いたものがその分野における彼の
ランドは1950年代から1960年代にかけて制作した企業[[ロゴ]]の分野で一番知られているが、もともと評価されたのは初期のページ・レイアウト(タイプセッティング)の仕事である。1936年、ランドは''Apparel Arts''という雑誌の記念号のページ・レイアウトを任される<ref name="heller"/>。彼の才能は「ありふれた写真を
''Direction''誌のカバーのデザインは、そのころまだ模索中であった「ポール・ランド風」デザインを展開していくための重要な
こうしたやり方で、ランドは普通は「ハイ・アート」の文脈で扱われるテーマを自分のグラフィック・デザインに導入する実験を試みていたのである。この試みは、さらに彼の一生涯をかけた追求である、ヨーロッパの
==コーポレート・アイデンティティ==
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{{cquote|ランドはほとんど彼ひとりの力でデザインが効果的な道具であるということをビジネス界に納得させてしまった。[. . .] 1950年代から1960年代にかけてデザインをしていた者は、ランドに大きく助けられた。彼はそれが仕事になりうる状況を作ってくれたのだ。彼は誰よりもデザインという職能の地位を向上させることに貢献した。我々は彼のおかげで商業芸術家ではなくてグラフィック・デザイナーになることができたのだ。<ref name="heller"/>}}
ランドの仕事を端的にあらわすコーポレート・アイデンティティは彼によって1956年にデザインされたIBMのロゴである。[[マーク・フェーヴァーマン]](Mark Favermann)は、これは「単なるアイデンティティではなく、この企業全体の意識と一般への受容に深く浸透した基本的なデザイン哲学となった」<ref name="favermann">Favermann, Mark. “Two Twentieth-Century Icons.” ''Art New England'' Apr–May 1997: 15.</ref>と述べている。ロゴは1960年にランド自身によって改変され、1972年にはストライプのものが誕生する。ランドは1970年代初期から1980年代初期にかけてIBMのために梱包材やマーケティングのための資料のデザインも行い、この中であの有名な「アイ(eye=目)、ビー(bee=蜂)、エム(IBMロゴのM)」ポスターも誕生した(英語版本記事の図Bを参照)。[[フォード]]は1960年代にランドに企業ロゴのデザイン見直しを依頼したが、結局、彼による
ランドのロゴ・デザインはシンプルで単純なものだと見なされやすい。彼は『デザイナーの技芸』(''A Designer’s Art'')の中ですでに「
ランドは高齢になってからも制作に旺盛で、80年代、90年代に入ってからも多くの重要なコーポレート・アイデンティティを制作し続けた。この中にはひとつの
==影響とそのほかの仕事==
===理論の展開===
多くのスタッフを使っていたこともある一方、ランドは製作
[[スティーヴン・ヘラー]]はこのミーティングの重要性を指摘し、「その時以来、ランドは[[ロジャー・フライ]]や[[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]]、[[ジョン・デューイ]]などの先進的な哲学者や芸術批評家などの本を貪るように読みふけった」と述べている。それらの理論家はランドの仕事に深い影響を与えている。1995年のマイケル・クローガー(Michael Kroeger)とのインタビューでは、いろいろなトピックスに加えて特にデューイの『経験としての芸術』が話題になっている。ランドはデューイの主張を敷衍して以下のように述べている:
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{{cquote|[. . . 『経験としての芸術』は]あらゆる物事に関わってくるので、無関係でいられる対象は無くなります。この本が読まれるのに100年かかった理由はそこにあります。哲学者はいまでもこの本について議論している。この本はいつ読んでも必ず何か発見がある。これは私だけではなく哲学者たちが言っていることです。たとえば今読んで、来年になって再読すれば、また新しい発見があるでしょう。<ref>Kroeger, Michael. Interview with Paul Rand. MK Graphic Design. 8 Feb. 1995. 15 Feb. 2006 <http://www.mkgraphic.com/paulrand.html></ref>}}
このように、デューイがランドのグラフィック・デザインの根本的な思想の重要な
====批判====
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===モダニストの影響===
ランドの
{{cquote|印象派からポップ・アートに至まで、平凡な物事やマンガさえもが芸術家の熱狂の栄養源になってきた。セザンヌがリンゴについて試みたこと、[[ピカソ]]がギターについて行ったこと、[[フェルナン・レジェ|レジェ]]が機械について、[[クルト・シュヴィッタース|シュヴィッタース]]がガラクタについて、そして[[デュシャン]]が便器でやったことは、新しいことは大げさな
この「日常を異化する」という、一般にロシアのフォルマリズム批評家[[ヴィクトル・シクロフスキー]](Viktor Shklovsky)は帰せられるストラテジーは、ランドのデザインの規準にとって大きな意味を持っていた。たとえば電球のようなありふれた製品のために、コーポレート・アイデンティティを用いて「生き生きとして
===アン・ランドとの仕事===
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