「粟島 (新潟県)」の版間の差分

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==歴史==
[[縄文時代]]の遺跡が東海岸に5ヶ所発見されていることから、既にその時代には人が住んでいたと想定される。しかし、[[弥生時代]]・[[古墳時代]]の遺跡は発見されていない。[[万葉集]]第12巻所収の「波の間(ま)ゆ雲居に見ゆる粟嶋の逢はぬものゆゑ吾(あ)に寄する児(こ)ら」が文献資料での粟島の初見と思われる。
1964年6月16日午後1時頃に、粟島沖を震源とするマグニチュード7.5の地震([[新潟地震]])が発生。島全体が約1メートルも隆起した。このため水稲栽培が難しくなり島を覆っていた水田はほとんど姿を消した。
古代の粟島は史料が残っていないためよくわかっていないが、以下のような伝承がある。[[大和朝廷]]の[[蝦夷]]征伐によって土地を追われた蝦夷が粟島に上陸し、東海岸(現在の内浦地区)で生活をはじめた。しかし9世紀初め、北九州の[[松浦党]]の一族が粟島東海岸へ上陸し、蝦夷を西海岸(現在の釜谷地区)へ追い払って生活をはじめた。その半世紀後、今度は[[越前国]]の[[本保氏]]一族が粟島東海岸へ上陸し、松浦一族を西海岸へ追い払い、そこで生活をはじめたという。追われた松浦一族は西海岸で生活していた蝦夷を北に追い、西海岸を開拓してそこを拠点とした。やがて北の蝦夷は絶滅し、島には東海岸の本保一族と西海岸の松浦一族のみが残ったという。
中世は[[揚北衆]]の一つ[[色部氏]]の所領であった。[[江戸時代]]になると、[[村上藩]]領、[[天領]]、[[庄内藩]]預所などを経て、[[宝暦]]3年(1753年)以降は廃藩置県まで[[米沢藩]]預所となった。明治22年(1889年)、粟島浦村が成立し、現在に至っている。
昭和39年(1964年)6月16日午後1時頃に、粟島沖を震源とするマグニチュード7.5の地震([[新潟地震]])が発生。島全体が約1メートルも隆起した。このため水稲栽培が難しくなり島を覆っていた水田はほとんど姿を消した。
 
==文化財==
===国天然記念物===
*オオミズナギドリ及びウミウの繁殖地(西海岸一帯)
===県指定重要文化財===
*粟島の石造遺物群(文和年間造立の[[板碑]]、金箔板碑等)
*やす突観音(平安時代後期の作)
 
==自然==
標高265mの小柴山を中心に島のほとんどが山地で占められている。海岸線は東海岸は平坦であるが、西海岸は奇岩が多く立ち並ぶ断崖絶壁となっている。また、山地の東海岸が杉や竹で覆われているのに比べ、西海岸は日本海の強風の影響で樹木はほとんど発達していない。
 
==気候==
 
==産業==
漁業(主に鯛、ヒラメ、タコ)、農業(ジャガイモ、竹製品)、観光産業(釣り、バードウオッチング、自然散策)
 
==交通==