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Yonoemon (会話 | 投稿記録)
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|道宗
|仁聖大孝文皇
|契丹名:涅鄰<br/>漢名:洪基
|涅鄰
|[[1032年]] - [[1101年]]
|[[1055年]] - [[1101年]]
|[[興 (遼)|興宗]](長男)
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==生涯==
遼の第7代皇帝・[[興宗 (遼)|興宗]]の長子で、母は[[仁懿皇后]]蕭氏。早くから[[儲君]]に定められ、朝政に参加した。[[重熙 (元号)|重熙]]24年([[1055年|1055]])8月、死去した興宗のあとを継いで即位。はじめに興宗の同母弟・[[耶律重元]]を[[皇太子|皇太叔]]および[[天下兵馬大元帥]]としたが、[[清寧]]9年([[1063年|1063]])7月、重元・[[耶律涅魯古|涅魯古]]父子が謀反を起こすと、母后仁懿皇后が中心となって、[[耶律仁先]]・[[耶律乙辛]]らに命じてこれを平定した。[[咸雍 (元号)|咸雍]]2年([[1066年|1066]])、[[国号]]「[[契丹]]」を改めて「大遼」とした(契丹から遼への改名は2度目)。
 
前半期時代は、「直言を求め、治道を訪ねる」(『[[遼史]]』)という宗旨のもと、[[勧農]](農業の振興)・[[興学]](学校の建設)・[[救災]]などに努めたが、やがて遊猟と造寺にふけて政治を顧みなくなり、耶律乙辛の専権を許した。乙辛は聡明な[[皇太子]][[耶律濬]](または梁王・耶律浚、順宗・章懐太子)を忌避し、[[大康 (元号)|大康]]元年([[1075年|1075]])11月、まず皇太子の生母である[[蕭観音|懿徳皇后]](蕭観音)を道宗に讒言した。乙辛と組んだ[[宰相]][[張孝傑]]の証言によって皇后の不貞を信じた道宗は激怒し、皇后に自殺を命じた。乙辛はついでに皇太子を無実の罪に陥れ、道宗に説いてこれを幽閉の末暗殺した。齢21だった。乙辛は自分に近い皇后を立て、ますます専権した。
 
しかし、道宗の皇子は皇太子ひとりであったため、年老いた道宗は子を憶う心が強まり、遂に故皇太子の子延禧を召して[[皇太孫]]に立てた。道宗も徐々に乙辛の陰険さを悟るようになり、不安に感じた乙辛は大康7年([[1081年|1081]])、皇太孫に加害しようとして露顕し、翌々年、兵器を匿い[[北宋|宋]]に逃亡しようとした所を誅殺された。これでようやく皇太孫の地位が安定し、道宗朝の政治の混乱は収まった。道宗は[[寿昌 (元号)|寿昌]]7年([[1101年|1101]])正月、70歳で行宮にて死去。[[遺詔]]によって、後を孫の燕国王延禧が継いだ(遼最後の皇帝である[[天祚帝]])。
 
道宗の時代は、皇帝の暗愚と奸臣の専権によって、忠臣が迫害されたり貴顕間の軋轢が続いたりして、遼の朝政は乱れに乱れた。また、土地の兼併が進むにつれ民衆の不満が募り、ことに圧迫を受けた異民族の[[女真]]は反抗に立ち上がった。女真の反乱は、道宗の死後25年目には、遼を滅ぼす烈火となるのであった。このような世の中であるのに、道宗は[[仏教]]に浸り、[[寺院|堂塔]]の建立や[[僧尼]]への[[布施]]に巨額の[[国費]]を使い流し、仏寺・僧尼の氾濫を助長した。次代に災禍の種を存分に蒔いた道宗の47年に及ぶ在位を、遼を全盛から衰亡へ導いた半世紀と言っても過言ではあるまい。遼の正史である遼史も、手厳しい批判を下している。
 
 
== 宗室 ==
=== 妻妾 ===
*宣懿蕭皇后(蕭観音)
*蕭恵妃
=== 子女 ===
*順宗・章懐太子・[[耶律濬]](梁王・耶律浚とも、契丹名は魯斡、)
 
 
*梁宋国大長公主
*趙国公主
 
 
{{先代次代|[[遼]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第8代:1055年 - 1101年|[[興宗 (遼)|興宗]]|[[天祚帝]]}}