「道宗 (遼)」の版間の差分
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|道宗
|仁聖大孝文皇
|契丹名:涅鄰<br/>漢名:洪基
|[[1032年]]
|[[1055年]]
|[[興宗 (遼)|興宗]](長男)
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==生涯==
遼の第7代皇帝・[[興宗 (遼)|興宗]]の長子で、母は
前半期時代は、「直言を求め、治道を訪ねる」(『[[遼史]]』)という宗旨のもと、[[勧農]](農業の振興)・[[興学]](学校の建設)・[[救災]]などに努めたが、やがて遊猟と造寺にふけて政治を顧みなくなり、耶律乙辛の専権を許した。乙辛は聡明な[[皇太子]][[耶律濬]](または梁王・耶律浚、順宗・章懐太子)を忌避し、[[大康 (元号)|大康]]元年([[1075年|1075]])11月、まず皇太子の生母である
しかし、道宗の皇子は皇太子ひとりであったため、年老いた道宗は子を憶う心が強まり、遂に故皇太子の子延禧を召して[[皇太孫]]に立てた。道宗も徐々に乙辛の陰険さを悟るようになり、不安に感じた乙辛は大康7年([[1081年|1081]])、皇太孫に加害しようとして露顕し、翌々年、兵器を匿い[[北宋|宋]]に逃亡しようとした所を誅殺された。これでようやく皇太孫の地位が安定し、道宗朝の政治の混乱は収まった。道宗は[[寿昌 (元号)|寿昌]]7年([[1101年|1101]])正月、70歳で行宮にて死去。[[遺詔]]によって、後を孫の燕国王延禧が継いだ(遼最後の皇帝である[[天祚帝]])。
道宗の時代は、皇帝の暗愚と奸臣の専権によって、忠臣が迫害されたり貴顕間の軋轢が続いたりして、遼の朝政は乱れに乱れた。また、土地の兼併が進むにつれ民衆の不満が募り、ことに圧迫を受けた異民族の[[女真]]は反抗に立ち上がった。女真の反乱は、道宗の死後25年目には、遼を滅ぼす烈火となるのであった。このような世の中であるのに、道宗は[[仏教]]に浸り、[[寺院|堂塔]]の建立や[[僧尼]]への[[布施]]に巨額の[[国費]]を使い流し、仏寺・僧尼の氾濫を助長した。次代に災禍の種を存分に蒔いた道宗の47年に及ぶ在位を、遼を全盛から衰亡へ導いた半世紀と言っても過言ではあるまい。遼の正史である
== 宗室 ==
=== 妻妾 ===
*宣懿蕭皇后(蕭観音)
*蕭恵妃
=== 子女 ===
*順宗・章懐太子・[[耶律濬]](梁王・耶律浚とも、契丹名は魯斡、)
*梁宋国大長公主
*趙国公主
{{先代次代|[[遼]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第8代:1055年 - 1101年|[[興宗 (遼)|興宗]]|[[天祚帝]]}}
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