「文宗 (唐)」の版間の差分

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衛攸之 (会話 | 投稿記録)
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==生涯==
初めは'''江王'''に封冊されていた。[[826年]]、敬宗が[[劉克明]]によって殺害されると、劉克明と対立する[[宦官]]の[[王守澄]]派により皇帝に擁立された。朝政の実権は王守澄らが掌握し文宗は皇帝としての実権を殆ど持たず、傀儡に近い存在であった。
 
親政を計画し、[[831年]]に宰相の[[宋申錫]]と共に宦官の討滅を図ったが失敗する。そして[[835年]]に再び[[李訓]]らと共に宦官討滅を図った。この時は朝政実権を掌握していた王守澄を自殺に追い込んだが、その後の宦官に対する大量粛清の計画が事前に露見し、李訓らは殺害、文宗も捕らえられて幽閉されることとなった([[甘露の変]])。
 
文宗は既に実子の晋王と荘恪太子と蒋王を相次いで失っていたために、亡兄の敬宗の末子である陳王の[[李成美]]を[[皇太子|皇太甥]]としていた。しかし甘露の変が発生すると、宦官の[[仇士良]]らによりで李成美は殺害され、文宗の異母弟である頴王[[武宗 (唐)|李瀍]]が立太子された。[[840年]]、幽閉されていた文宗は33歳で[[崩御]]した。最後晩年に「[[朕]]は[[周]]の[[赧王 (周)|赧王]]・[[漢]]の[[献帝]]は強臣に制せられたに過ぎりけり。ずれはが、[[奴隷|朕]]は家奴([[宦官]]されていであろう…」と嘆いたと伝えられている。
 
==宗室==