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1121年、蕭奉先は天祚帝に拝謁し、「余覩は晋王・傲盧斡を擁立する陰謀の疑いあり」と讒言した。天祚帝自身も梁王を可愛がっていたこともあり、蕭奉先の[[冤罪]]の言葉をすっかり信じてしまった。そのために、余覩は[[謀反|謀反人]]として[[処刑]]され、晋王は[[廃嫡]]され、生母の蕭文妃とともに[[賜死]]を命じられてしまった。こうして、蕭奉先の思惑通りに梁王が太子となった。
 
翌1122年2月に父帝が、入來山で[[金 (王朝)|金]]の[[阿骨打|太祖]]と戦って大敗し、[[長春]]に逃れた。すると翌3月、皇族の[[耶律大石]]が[[李処温]]らとともに、雅里の従大叔父の耶律淳を擁立し、「北遼」を建国してしまった([[天錫帝]])。しかし、天錫帝は6月に61歳で病没し、その未亡人の蕭徳妃普賢女が[[摂政]]となり、異母弟の秦王・耶律定(天祚帝の五男)が擁立された。
 
しかし、翌1123年2月に金の太祖は都の[[燕京]]を陥落させ、大石らは蕭徳妃普賢女を奉じて、長春にいる天祚帝のもとへ頼った。だが、天祚帝は自分に無断で、天錫帝を擁立した理由で「おば」の蕭徳妃普賢女を処刑した。