削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
65行目:
その流れが変わるのは、[[ヤクザ映画]]ブームの起点となる『[[人生劇場 飛車角]]』(1963年、[[鶴田浩二]]主演)に出演し、注目を集めてからである。1964年から始まる『[[日本侠客伝]]』シリーズ、1965年から始まる『[[網走番外地]]』シリーズ、『[[昭和残侠伝]]』シリーズに主演し、一躍、日本で最も集客力のあるスーパースターとなる。本職のヤクザの人から、労働者、[[学生運動]]の闘士達にも大人気となり、オールナイト興行にまでファンがあふれ、立ち見が出た。しかし、「飲む・打つ・買う」の映画界にありながら、高倉は自らを厳しく律し、酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていたという。また、その肉体美による[[刺青]]姿の立ち回りは圧巻で、他のスターとは一線を画した印象を示したことが、この大ヒット連発の一因であった。たくましい体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、言い訳をせずに筋を通すという高倉健のイメージは、この時期に確固たるものとなり、[[21世紀]]の現在まで、役柄に現れている。そのイメージと風貌は、[[劇画]]『[[ゴルゴ13]]』の主人公・[[デューク東郷]]のモデルになったことでも知られ、同作の実写映画版への出演は、原作者の[[さいとう・たかを]]たっての要望であったと言われている(詳細は『[[ゴルゴ13]]』の項を参照のこと)。
 
歌手としても、ドスの利いた渋いノドを聞かせ、人気を得るに至り、『[[網走番外地]]』は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で放送禁止になったが、ミリオンセラー(公称200万枚<ref>[[長田暁二]]『歌謡曲おもしろこぼれ話』社会思想社、2002年、204頁。ISBN 4390116495</ref>)の大ヒットとなる。『[[昭和残侠伝]]』シリーズの主題歌『[[唐獅子牡丹]]』も大ヒットとなり、今でもカラオケなどで歌い継がれている。
 
高倉はこの頃、来る日も来る日も同じようなストーリーの[[ヤクザ映画]]に、休みなく出演し続けることに嫌気がさし、1970年に[[高倉プロ]]を設立する。1976年には[[東映]]を退社し、独立した。ここまで、数本の外部作品(ハリウッド映画を含む)への出演もあったが、それらを除くともっぱら[[東映]]であり、多数の[[ヤクザ映画]]に出演。今でもヤクザ映画のシンボル的存在となっている。