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== 概要 ==
1955年10月18日、宮城県志田郡松山町の農家が全焼し、焼け跡からこの家に住む一家4人である家主(当時54歳)、家主他殺妻(当時42歳)、夫婦の四女(当時10歳)と長男(当時10歳)の焼死体が発見された。同年12月8日、別件で逮捕されていた肉屋店員遺体解剖結果、長性(当時24歳)をこ以外事件の犯人と頭部に刀傷らきものが認められ強盗殺人および放火の疑いで逮捕事件と、12月30日に起訴されたて捜査本部が設置
 
事件発生後、1ヶ月で捜査は暗礁に乗り上げ、犯行当日以降に地元を去った人間を調査したところ、東京の板橋区に勤務していた斎藤幸夫(当時24歳)が浮上。12月2日、別件容疑にて斎藤を逮捕して身柄を拘束。同月8日以降、斎藤は警察の厳しい取調べで自白しては、自白撤回を繰り返していたが、同月8日、警察は強盗殺人・放火の疑いで逮捕、12月30日に起訴。
1957年10月29日、仙台地裁で死刑判決。1959年5月26日に仙台高裁で控訴が棄却され、1960年11月1日に最高裁で上告が棄却されたため、死刑が確定する。男性は無罪を訴えて再審請求をし、第2次再審請求が認められて1979年12月6日に再審が開始。証拠とされた男性の掛け布団の血痕は、警察の捏造であるとされた。1984年7月11日、無罪判決が言い渡され、28年7ヶ月にも及ぶ獄中生活に終止符が打たれて無罪となった男性は7516万8000円の刑事補償金を受け取ったが、長期間死刑囚として過ごさざるを得なかったため、年金は受給されず[[生活保護]]受給者となっていた。2006年7月5日死去した。
 
*1957年10月29日、仙台地裁で死刑判決。
*1959年5月26日、仙台高裁で控訴が棄却。
*1960年11月1日に最高裁で上告が棄却、死刑が確定。
 
斎藤は無罪を訴えて再審請求を開始。やがて第2次再審請求が認められ、1979年12月6日に再審が認められる。警察は留置所に前科5犯のスパイを送り込み、「警察の取調べで罪を認めても、裁判で否定すればいい」と斎藤に言って自白に追い込んでいたことが判明。また証拠とされた男性の掛け布団の血痕は、警察の捏造であるとされた。
 
1984年7月11日、無罪判決。28年7ヶ月にも及ぶ獄中生活に終止符が打たれて無罪となった斎藤は7516万8000円の刑事補償金を受け取るも、大半は裁判のための借金返済に消えた。その後、故郷に戻り、会社に勤務しながらアムネスティ日本支部などの団体で講演活動をしていたが、長期間死刑囚として過ごした間の年金は受給されず、晩年は[[生活保護]]受給者となっていた。2006年7月5日死去。
 
== 関連項目 ==