「堀江景忠」の版間の差分

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== 出自 ==
[[家伝]]によると、[[堀江氏]]([[堀江氏 (藤原氏)|堀江氏]]は[[藤原利仁|利仁流]][[斎藤氏|河合斎藤氏]]の系統であり、[[鎌倉時代]]から[[越前国]][[坂井郡]]河口荘堀江郷(現在の[[あわら市]]周辺)に有力[[国人]]として、土着拠点したとされる。また堀江氏の家伝として、確実な史料からは[[応永]]3年([[1398年]])に[[興福寺]]の配下として活動した人物として、「[[堀江賢光]]」の名前が見える。
 
その後、堀江氏は興福寺から離反し、守護である[[斯波氏]]の配下として[[三国湊]]の代官などを務めるなど大きな勢力を誇るが、本家筋は[[長禄]]年間の斯波氏と守護代の[[甲斐氏]]の争いの中で没落した可能性が高い。一方で、傍流がその後越前に勃興した朝倉氏に仕えることとなったと考えられている。朝倉氏のもとで堀江氏は有力な国衆の一人として一乗谷内にも屋敷を持ち(『[[一乗谷古絵図]]』)、坂井郡三国湊の舟奉行を勤めるなど重用されている。