「エロティシズム」の版間の差分

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生と死、タブー
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エロティシズムという言葉の語源は[[ギリシア神話]]の愛の神[[エロス]]の名前である。エロティシズムは官能愛または人間の性衝動([[リビドー]])のことだと考えられている。西洋哲学やキリスト教は[[愛#キリスト教での愛|愛]]をエロス、フィーリア、[[アガペー]]の3種類に区別している。この3者のうちエロスはもっとも自己中心的で、自己への配慮に満ちていると考えられている。
 
古代ギリシア哲学はギリシア神話をひっくり返し、様々な仕方で、エロティシズムの高度に美的な意味やセクシュアリティの問題をどのようにわれわれが理解しているかを明らかにしている。結局のところエロスとは混乱した性的欲望を表象する原始的な神であり、さらに言えば異性からの性的欲望を切望する[[異性愛]]的なものでもある。[[プラトン]]の[[イデア]]論では、エロスはイデア的な美と究極性を主体が切望することに対応している。エロスとは肉体同士の調和的合一であるだけではなく、認識と快楽との合一でもあるのだ。[[主体]]がみずからを超えて[[客体]]的な他者と交渉しようとするとき、エロスはほとんど[[超越]]の表明でさえある。フランスの哲学者[[ジョルジュ・バタイユ]]の考えでは、エロティシズムとはわれわれ自身の主観性の限界へ向かおうとする運動であり、合理的世界を解体する侵犯行為なのであるが、この侵犯はつねに束の間のものに終わる。この点で[[タブー]](禁忌)を犯す行為と関わるが、そのタブーは倫理的要請から来るものではなく、いわば「聖なるタブー」を侵犯する不可能性から「[[死]]」にも肉薄するものとなる。
 
さらにエロスやエロティックな表現に対する異議として、欲望の対象が欲望主体の欲求の単なる投影にすぎないような主客関係を助長する、というものがある。エロスとしての愛は、フィーリア(友情)やアガペー(無償の愛)よりも卑しいと考えられている。しかし[[逆説]]的なことに、エロティックな関心は欲望主体自身を個体化し、脱個体化する。
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このように愛の営みは冒瀆という性格を帯びている。エロティシズムは戦いであり、他者を隠れ家から引きずり出し、身をさらさせる。[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]によれば[[愛撫]]とはほんものの[[魔術]]なのである。愛撫を受けると身体は[[備給]]され、身体化される。すなわち単なる肉体としてではなく、人格の住まった肉体として、自由として現れ出るのである。とはいえ [[ミシェル・レリス]]も言うように、「聖なるものに属する言葉を用いる」のは「結局のところ聖なるものを破壊し、その異質性を少しずつ剥ぎ取っていくこと」にすぎない。
 
同じくプラトンの『饗宴』においてソクラテスは、エロティシズムが恋人同士の共同とか補完とかより気高いものを目標としていると述べている。すなわちエロティシズムは「[[真理]]」へ向かう身ぶりだと言うのである。
 
[[宗教]]としては、エロティシズムは個人を、[[体|個]]を超える創造的な力に直面させる。 おそらくそれは[[]]とか[[]]の観念とかいったものというよりも、[[生命]]とか、生物学的意味での性(セクシュアリティ)とか、繁殖といったものである。
 
聖なるものとしての性は畏怖すべきものでもあり魅惑的なものでもある。バタイユによれば、性は反道徳的であるというよりも、生命と種の保存の名において個人的道徳を失効させるものである。エロティシズムは、個体が自己の中に閉じこもることを拒むという点では死と共通するものをもっている。個体の意識や自我はこの閉じこもりを基礎にしているからである。性衝動が繁殖と結びつくと、自己保存の本能という地平を越える。個体はやがて滅びるから繁殖を行うのではなく、生命が更新されるためには個体は滅びなければならないのである。生と死という一見反対のものが一つであり、豊饒をもたらすという芸術を古代人は「[[死と再生の神|死と再生の秘儀]]」という形で伝承してきた。ギリシア神話でそれは[[ディオニュソス]]と呼ばれたもので、[[バックス (ローマ神話)|バッカス]]の暴力的な秘儀の中に[[マイナス (ギリシア神話)|狂信女たち]]は陶酔を見たのである。
 
=== セクシュアリティと誘惑 ===