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'''沖識名'''(おき しきな [[{{和暦|1904年]]}}- [[{{和暦|1983年]]}}[[12月15日]])は、日本の[[プロレス]]の元[[レフェリー (プロレス)|レフェリー]]。
 
==人物==
[[沖縄県]]出身。本名は識名盛夫。[[ハワイ]]に移住([[日系アメリカ人]])。ハワイ相撲や1931年(昭和6年)にタロー・三宅([[三宅多留次]])に出会いプロレスに携わる。
 
[[1951年]]、ハワイで[[ハロルド坂田]]の誘いでプロレスに転向した[[力道山]]のコーチを務める。以後、[[日本プロレス]]で長年に渡ってメインレフェリーを務め、特に暴走する外国人レスラーにシャツを破かれるシーンが定番だった。
 
[[{{和暦|1973年]]3月の日本プロレス崩壊により引退。同年10月に[[蔵前国技館]]で引退興行([[全日本プロレス]]主催)が催された。
 
[[{{和暦|1983年]]}}12月15日没、[[享年]]79歳。奇しくも、ちょうど20年目の力道山の命日であった。
 
== エピソード ==
[[{{和暦|1965年]]}}に拳銃不法所持で逮捕されたことがある。
その際、留置場で「プロレスは八百長だろう」と絡んできた若いチンピラに対して「俺が命を賭け、身体を張ってきたプロレスを八百長呼ばわりするとは許せない」と激怒した沖は、このチンピラと取っ組み合って、あっと言う間にのしてしまったという。この時、沖識名は61歳だった(出典:[[門茂男]]著『群狼たちの真実』角川文庫刊)。