「千葉県」の版間の差分

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=== 縄文から古墳時代まで ===
[[画像:加曾利遺跡全景.jpg|thumb|180px|right|[[加曾利貝塚]]全景]]
[[画像:ハス3.JPG|thumb|180px|right|[[大賀ハス|大賀ハス(古代ハス]]]]
[[縄文時代]]の遺跡としては、貝塚がよく知られている。縄文時代の貝塚は日本各地に約1500ヶ所を数え、関東地方には、約1000ヶ所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚の宝庫と呼ばれ、約600ヶ所が密集しており、千葉県の[[東京湾]]域、[[利根川]]流域の台地には500ヵ所ほどの遺跡が見られる。[[千葉市]]にある[[加曾利貝塚]]が有名で、千葉市若葉区の台地には、[[加曾利貝塚博物館]]が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の推積状態を観察することが出来る。
 
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県内では、成田市の[[荒海貝塚]]から縄文から弥生時代へ移り変わるころの籾殻痕がついた土器が見つかっており、イネの栽培が行われていたと推定されている。ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていない。[[農耕社会]]にはいると、『[[村|ムラ]]』の形態が変化し、これまでの採集経済にかわり、生産経済が展開されていく。この過程の中で[[環濠集落]]が出現するが、千葉県では[[1979年]]から行われた[[佐倉市]]の[[六崎大崎台遺跡]]の発掘で発見されている。遺跡は台地にあり、周辺の低地には、水田が広がり、そこでは技術的に完成された農業が営まれていたと推測されている。[[環濠集落]]は、政治的施設や生産工房を府置した、政治的軍事的な「城塞集落」で、[[佐賀県]]の[[吉野ヶ里遺跡]]は、前者の数十倍の規模で、[[陸橋]]・[[門柱]]・[[柵列]]や[[物見櫓]]が見つかっている。また、[[環濠内]]には[[弥生墳丘墓]]や[[祭祀]]施設も備わっていたことがわかっている。
 
*縄文遺跡の[[落合遺跡]]([[東京大学検見川総合運動場]])から発掘されたハスの実は発芽に成功し、'''[[大賀ハス|大賀ハス(古代ハス]]'''と呼ばれ、[[世界]]的に有名である。
 
弥生時代末期になると[[六崎大崎台遺跡]]の環濠は消滅し、ムラの景観が一変する。台地の北に大型住居を伴ったムラがつくられ、南には墳墓を有する大型の方形周溝墓が作られた。こうした変化は、墓がムラの共通空間として認識されるようになったこと示唆している。ムラの首長のあり方が変化し、地方豪族が誕生、社会変動の過程で新たな墓が出現するようになり、[[古墳時代]]に至る。