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'''ポール・ランド'''('''Paul Rand''', 本名'''Peretz Rosenbaum''', [[1914年]][[8月15日]] - [[1996年]][[11月26日]])は、[[アメリカ合衆国]]の著名な[[グラフィックデザイナー]]。様々な企業の[[ロゴタイプ|ロゴ]]デザインで知られる。[[プラット・インスティチュート]] (1929–1932)、ニューヨークの[[アート・スチューデント・リーグ]] (1933–1934)で学んだ。グラフィック・デザインにおける[[国際タイポグラフィー様式|スイス・スタイル]]の創始者のひとりである。1956年から1969年にかけて、さらに1974年以降、[[イエール大学]]でデザインを教えている。1972年、ニューヨークの[[アート・ディレクターズ・クラブ]]の殿堂(Hall of Fame)入りを果たした。
作品として多くの[[コーポレート
作品の一部は[[:en:Paul Rand|英語版wikipedia]]および[[:fr:Paul Rand|仏語版wikipedia]]で見ることができる。
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彼の経歴はそれほど華々しい開始をしたわけではなく、初めの仕事は新聞や雑誌にストック・イメージを提供する会社のパート・タイムであった<ref name="heller"/>。学校の課題と仕事の合間をつかってランドは相当な量のポートフォリオを作成している。これは[[ドイツ]]の広告のスタイル、[[ザッハプラカット]] (Sachplakat, object poster)や[[グスタフ・イエンセン]]の影響を受けたものであった。
はっきりとユダヤ系と分かる「ペレス・ローゼンバウム」という名前を隠し、簡単なものにするために名前を変えようと決意するのはこの時期である。ファーストネームは短くして「ポール」とし、叔父から「ランド」という姓を借りることにした。ランドの友人で恊働していたモリス・ヴィソグロード(Morris Wyszogrod)は、「彼は四文字ずつのPaul Randという名がすてきなシンボルになると思っていました。だから彼はポール・ランドになることにしたんです」<ref name="behrens"/>と語っている。[[ロイ・R・ベーレンス]]はランドの新たな名前の重要性を「ランドは新しいペルソナを手に入れた。これはその後の多くの業績のブランド名になったもので、つまり彼が最初につくりだしたコーポレート
実際にランドは急速に名を挙げるようになる。20代の初めにはすでに国際的な注目を集めるようになり、とりわけデザインの自由を交換条件として無償で請け負った雑誌''Direction''のカバーが評判となった<ref name="heller"/>。ついには[[モホリ=ナジ]]の賞賛も受けている:
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こうしたやり方で、ランドは普通は「ハイ・アート」の文脈で扱われるテーマを自分のグラフィック・デザインに導入する実験を試みていたのである。この試みは、さらに彼の一生涯をかけた追求である、ヨーロッパの現代主義の巨匠たちと自らの実践とを架橋する挑戦へとつながってゆく。
==コーポレート
ランドの最もよく知られたグラフィック・デザインへの貢献は、その多くがなおも当時のまま使われている[[コーポレート
{{cquote|ランドはほとんど彼ひとりの力でデザインが効果的な道具であるということをビジネス界に納得させてしまった。[. . .] 1950年代から1960年代にかけてデザインをしていた者は、ランドに大きく助けられた。彼はそれが仕事になりうる状況を作ってくれたのだ。彼は誰よりもデザインという職能の地位を向上させることに貢献した。我々は彼のおかげで商業芸術家ではなくてグラフィック・デザイナーになることができたのだ。<ref name="heller"/>}}
ランドの仕事を端的にあらわすコーポレート
ランドのロゴ・デザインはシンプルで単純なものだと見なされやすい。彼は『デザイナーの技芸』(''A Designer’s Art'')の中ですでに「独自のものや刺激的なものを生み出すためにアイデア自体が難解なものになる必要はない」と指摘している<ref name="rand2"/>。こうした最小限志向な理想と、ロゴは「最大限のシンプルさと慎ましさをもってデザインしなければ生き残るものにはならない」<ref name="rand2"/>というランドの理念は、彼のABCテレビのためのロゴ(1962年)に典型的に示されている。
ランドは高齢になってからも制作に旺盛で、80年代、90年代に入ってからも多くの重要なコーポレート
==影響とそのほかの仕事==
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{{cquote|[. . . 『経験としての芸術』は]あらゆる物事に関わってくるので、無関係でいられる対象は無くなります。この本が読まれるのに100年かかった理由はそこにあります。哲学者はいまでもこの本について議論している。この本はいつ読んでも必ず何か発見がある。これは私だけではなく哲学者たちが言っていることです。たとえば今読んで、来年になって再読すれば、また新しい発見があるでしょう。<ref>Kroeger, Michael. Interview with Paul Rand. MK Graphic Design. 8 Feb. 1995. 15 Feb. 2006 <http://www.mkgraphic.com/paulrand.html></ref>}}
このように、デューイがランドのグラフィック・デザインの根本的な思想の重要な源となっていることはどうやら明らかである。ランドの『デザインについて』のある部分に、デューイの哲学から近代芸術における「機能―美学的完成」へ補助線をひいているくだりがある。ランドが「デザインについて」で押し進めた思想のひとつは、ぼやけたり損傷した後でも認識されるようなグラフィック作品を制作することであった(英語版本記事図Dを参照)。ランドはコーポレート
====批判====
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{{cquote|印象派からポップ・アートに至まで、平凡な物事やマンガさえもが芸術家の熱狂の栄養源になってきた。セザンヌがリンゴについて試みたこと、[[ピカソ]]がギターについて行ったこと、[[フェルナン・レジェ|レジェ]]が機械について、[[クルト・シュヴィッタース|シュヴィッタース]]がガラクタについて、そして[[デュシャン]]が便器でやったことは、新しいことは大げさな概念を当てにしないということだ。これらの芸術家の課題は、日常性を異化することだったのである。<ref name="rand1">Rand, Paul. ''Paul Rand: A Designer’s Art.'' New Haven: Yale University Press, 1985</ref>}}
この「日常を異化する」という、一般にロシアのフォルマリズム批評家[[ヴィクトル・シクロフスキー]](Viktor Shklovsky)は帰せられるストラテジーは、ランドのデザインの規準にとって大きな意味を持っていた。たとえば電球のようなありふれた製品のために、コーポレート
===アン・ランドとの仕事===
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