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m アッシュは4大大会で男子シングルスを制覇した唯一の黒人選手ではないので訂正した
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'''アーサー・アッシュ'''('''Arthur Ashe''', [[1943年]][[7月10日]] - [[1993年]][[2月6日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[バージニア州]][[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]出身の男子[[テニス]]選手。本名は ''Arthur Robert Ashe Jr.'' (アーサー・ロバート・アッシュ・ジュニア)という。[[黒人]]テニス選手の先駆者として活躍したが、[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]のため49歳で死去した。[[1968年全米オープンテニス|1968年全米オープン]]、[[1970年全豪オープンテニス|1970年全豪オープン]]、[[1975年ウィンブルドン選手権|1975年ウィンブルドン]]で優勝し、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]男子シングルス「3勝」を挙げる。シングルス自己最高ランキングは2位。キャリア通算でシングルス33勝を記録。現在4大大会で男子シングルスを制覇した初の黒人選手であり、1983年ヤニック・ノアが全仏オープンで優勝するまで、4大大会で男子シングルスを制した唯一の黒人の男子テニス選手はアッシュた1人であるった
 
アッシュは公園の管理人だった父親のもとでテニスを始めたが、幼少期から人種差別の影響により、ジュニアのテニス・トーナメントに参加できなかった。10歳の時に黒人医師のウォルター・ジョンソンと出会い、彼の支援を受けるようになる。ジョンソンはアッシュを自宅に同居させ、学業とテニスの両面で多大の援助を与えた。[[公民権運動]]の高まりとともに、アッシュも徐々に試合出場の機会を得られるようになり、[[1960年]]と[[1961年]]に「全米室内テニス選手権」で2連覇を果たす。そうして[[カリフォルニア大学]]に入学の道も開かれ、「[[全米大学体育協会|全米大学]]テニス選手権」のシングルス優勝も達成した。[[1963年]]から男子国別対抗戦・[[デビスカップ]]のアメリカ代表選手に選ばれ、黒人のテニス選手として初めてデ杯でプレーするようになった。