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[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])信之は上田に移り、沼田領は信之の長男・[[真田信吉]]に継がれることとなった(この時点でも正式な立藩ではない)。信之は[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])に信濃[[松代藩]]10万石に移された。このとき沼田領は分地されるが、独立した藩とはなっていない。
 
信吉は[[寛永]]11年([[1634年]])11月28日、父に先立って死去。後を信吉の子・[[真田熊之助]]が継いだが、これも寛永15年([[1638年]])11月6日、7歳で夭折。沼田領は翌年7月25日、沼田領の大半を信之の次男で信吉の弟[[真田信政]]が継いだぎ、信吉の次男・[[真田信利]]に5千石が分地された。信政は領内の検地などを実施して基盤を固めようとしたが、[[明暦]]2年([[1656年]])に信之が隠居したため、松代の真田宗家の家督を継ぐこととなり、沼田を去った。代わって沼田領は故・真田信吉次男・[[真田全てを信利]]が継ぐこととなった。
 
明暦4年([[1658年]])2月に本家を継いだ信政が死去すると、信直(信利)と信政の6男で2歳の[[真田幸道|信房]](後の幸道)の間で後継者争いが勃発。結局、信房が真田宗家の家督を継ぐことになったが、この騒動により沼田領は正式に松代藩から独立することになった。(沼田藩の立藩)
 
ところが信直は、[[寛文]]2年([[1662年]])に沼田藩で領の検地を実施し、実高3万石(一説によると6万石)の所領を14万4000石と幕府に大申告した。このため、沼田藩の領民は増税に苦しめられることになる。この暴挙ともいえる所業に関しては、真田宗家の家督を継げなかったことが影響していると言われている。[[延宝]]8年([[1680年]])、信直は幕命により[[江戸]]両国橋の掛け直しのために用材を沼田藩から差し出すことを請け負ったが、人心がすでに荒廃疲弊きっていた沼田領民が協力するわけが無く、翌年11月、信直は用材の納期に間に合わなかった責任を問われて改易となった。
 
沼田は廃藩・[[天領]]となったが、[[元禄]]16年([[1703年]])1月11日、[[下総国]][[舟戸藩]]から2万石で[[本多正永]]が入り、再び沼田藩が立藩。正永はさらに2万石を加増されて4万石の大名となる。その後、第3代藩主・[[本多正矩]]の代である[[享保]]15年([[1730年]])、[[駿河国]][[田中藩]]へ移封される。享保17年([[1732年]])3月1日、[[常陸国]][[下館藩]]から[[黒田直邦]]が3万石で入る。しかし第2代藩主・[[黒田直純]]の代である[[寛保]]2年([[1742年]])7月28日、[[上総国]][[久留里藩]]へ移封となった。代わって[[老中]]であった[[土岐頼稔]]が[[駿河国]][[田中藩]]から3万5000石で入部する。第3代藩主・[[土岐定経]]の代である[[天明]]元年([[1781年]])12月、年貢増徴に反対した領民によって[[見取騒動]]が発生し、定経は領民の要求を受け入れることで解決した。