「旧唐書」の版間の差分

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'''旧唐書'''('''くとうじょ''')は、[[中国]][[五代十国時代]]の[[後晋]][[石重貴|出帝]]の時に[[劉ク|劉昫]]らによって編纂された[[歴史書]]。[[二十四史]]の一つ。「[[本紀]]」20巻、「[[列伝]]」150巻、「[[志]]」30巻の計200巻から成る[[紀伝体]]で、[[唐]]の成立([[618年]])から滅亡まで([[907年]])について書かれた。
 
成立は[[945年]]だが、その翌年には[[後晋]]が滅びてしまうために、編纂責任者が途中で交代するなどして、一人の人物に二つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。そのため後世の評判は悪く、[[北宋]]時代に『[[新唐書]]』が再編纂される事になった。しかし逆に生の資料をそのまま書き写したりしているので資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われている。当初の呼び名は単に『'''唐書'''』だったが『新唐書』が編纂されてから『旧唐書』と呼ばれるようになった。旧唐書の中には[[日本]]について「'''倭国伝'''」と「'''日本国伝'''」が立てられているのも編纂過程の影響であると考えられているが、[[宋 (王朝)|宋]]代初頭の『[[太平御覧]]』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれてしまっている<ref>ただし、『倭国伝』と『日本国伝』の間の倭国(日本)関連記事の中絶には[[白村江の戦い]]及び[[壬申の乱]]が含まれており、[[大庭脩]]はこれを単なる編纂過程のミスではなく、壬申の乱をもって「倭国([[天智天皇|天智政権]])」が倒されて「日本国([[天武天皇|天武政権]])」が成立したという見解が当時の中国側に存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。また、東夷伝には「日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。」ともあり、一般的となっている見解も載せられている。</ref>。