「平教経」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
5行目:
都落ち後、退勢にある平家の中でひとり気を吐き、[[水島の戦い]]、'''六箇度合戦'''、[[屋島の戦い]]で奮戦して[[河内源氏|源氏]]を苦しめた。最後は[[壇ノ浦の戦い]]の敗戦の中さんざんに戦い、源義経に組みかかろうとするが、'''八艘飛び'''で逃げられ、大男2人を締め抱えて海に飛び込んで死んだ。
 
ただし、[[鎌倉幕府]]の公式日記(またはそれに準ずるもの)の『[[吾妻鏡]]』では教経はさほど目立たない武将で、[[一ノ谷の戦い]]で[[安田義定]]の軍に討ち取られ、[[京都]]で[[獄門]]になっている。一方で、『[[玉葉]]』、『[[醍醐雑事記]]』などの別の史料では一ノ谷生存説もあり、猛将であったことを含め教経の実像については不明な点が多い。また九州に伝わる妖怪[[海御前]]は教経の妻(もしくは母親)だと言われている
 
==生涯==
主に[[軍記物語]]の『平家物語』に依って教経の活躍を記述する。軍記物語なので必ずしもすべてが史実とは限らない。