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'''藤原 茂子'''(ふじわら の もし/しげこ、
実父公成の姉妹祉子が能信の妻であったことから、子のなかった能信夫妻の養女として引き取られる。[[永承]]元年(1046年)、皇太子尊仁親王(後三条天皇)の副臥として入内。この時尊仁親王の異母兄[[後冷泉天皇]]はまだ若く、しかも尊仁親王とその母[[禎子内親王]]は[[関白]][[藤原頼通|頼通]]と対立していたこともあって、はかばかしい後見のない皇太子に娘を入内させる公卿はいなかった。そのため能信が妻の姪にあたる養女茂子を妃に入れたのだが、いくら能信の養女でも実父が中納言では、東宮妃にはふさわしくないと非難されている(また、当時養女を妃に入れたのは最高実力者であった頼通のみであり、能信がそれを行うのは不相応であるという意味合いがあったとも言われている)。
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陵墓は宇治陵([[京都府]][[宇治市]]木幡)。
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[[Category:藤原北家|もし]]
[[category:平安・鎌倉時代の皇族
[[Category:1062年没
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