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ダブルス用インフォボックス、参考文献など
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|出身地=同・ポズナニ
|居住地=
|誕生日=1952{{生830と年齢|1952|8|30}}
|没年日=
|身長=182cm
|体重=72kg
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|全米オープン=ベスト8(1980)
|優勝回数=
|全豪オープンダブルス=優勝(1978)
|全仏オープンダブルス=準優勝(1977)
|ウィンブルドンダブルス=ベスト4(1978)
|全米オープンダブルス=ベスト4(1978)
|ダブルス優勝回数=1
|シングルス最高=10位
|ダブルス最高=?位<!--19位なんて低位置ではない-->
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'''ヴォイチェフ・フィバク'''('''Wojciech Fibak''', [[1952年]][[8月30日]] - )は、[[ポーランド]]・[[ポズナニ]]出身の元男子プロ[[テニス]]選手。[[1970年代]]から[[1980年代]]前半にかけて活躍した、当地最大の男子テニス選手である。[[ポーランド語]]での現地綴りは ''Wojciech Fibak'' であるが、英語文献では短縮した '''Wojtek Fibak''' という名前で表記される。シングルス自己最高ランキングは10位で、男子テニス世界ランキングでトップ10位以内に入った唯一のポーランド人選手である。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス15勝、ダブルス52勝を挙げた。身長182cm、体重72kg、右利き。フィバクは[[ジミー・コナーズ]]や[[ギレルモ・ビラス]]と同じ年にあたり、この3人は生まれた時期も近い。
 
ポーランド中西部にある[[ヴィエルコポルスカ県]]の県都・ポズナニで大学教授の息子として生まれたヴォイチェフ・フィバクは[[1972年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[ポーランド]]代表選手となった。彼は大学の法学部で弁護士になるための勉強をしていたが、ポーランド・テニス連盟の反対を押し切って、[[1974年]]にポーランド人として最初の「プロテニス選手」になった。[[1975年]]に男子テニスツアーでダブルス年間5勝を挙げる。[[1976年]]5月に[[イギリス]]・[[ボーンマス]]の大会でシングルス初優勝を果たし、この年にシングルス3勝、ダブルス7勝を記録した。[[1977年]]、フィバクは[[1977年全仏オープンテニス|全仏オープン]]で初めて[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]の男子シングルス準々決勝に勝ち進み、男子ダブルスで[[チェコスロバキア]]の[[ヤン・コデシュ]]とペアを組んで決勝に進出した。シングルス準々決勝では[[ギレルモ・ビラス]]に完敗し、ダブルス決勝では[[ブライアン・ゴットフリート]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])&[[ラウル・ラミレス]]([[メキシコ]])組に敗れて準優勝に終わっている。この年はシングルスで2勝、ダブルスで10勝を積み上げた。

そしてついに、[[1978年]]の[[1978年全豪オープンテニス|全豪オープン]]男子ダブルスで、フィバクは[[キム・ウォーウィック]]([[オーストラリア]])とのペアで初優勝を達成する。これはポーランド人の男子テニス選手による、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]初優勝であった。過去には[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]直前の時代に、当地最大の女子テニス選手である[[ヤドヴィガ・イェンジェヨフスカ]]([[1912年]] - [[1980年]])の活躍があった。イェンジェヨフスカは[[1939年]][[全仏オープン|全仏選手権]]の女子ダブルスでポーランド人選手として初の4大大会優勝を飾ったが、女子シングルスでは3度の準優勝に終わり、[[1937年ウィンブルドン選手権|1937年ウィンブルドン]]と[[1937年全米オープン (テニス)選手権|全米選手権]](同年度に2大会連続)、[[1939年]][[全仏オープンテニス選手権|1939年全仏選手権]]の決勝で敗れた人である。まだ[[共産主義]]の支配下にあった[[1970年代]]後半のポーランドで、フィバクは当地の国民的英雄として尊敬を集めた。これは今なお、ポーランド人男子選手による唯一の4大大会優勝記録である。
 
4大大会シングルスでのフィバクは、[[1980年]]に[[1980年全仏オープンテニス|全仏オープン]]で3年ぶり2度目の準々決勝に進んだ後、[[1980年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]、[[1980年全米オープンテニス|全米オープン]]でもベスト8に入り、3大会連続で準々決勝進出がある。全仏オープンの準々決勝では、[[ビタス・ゲルレイティス]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])に 3-6, 7-5, 4-6, 6-3, 3-6 のフルセットで惜敗した。ウィンブルドンでは4回戦でそのゲルレイティスに雪辱を果たしたが、続く準々決勝で[[ブライアン・ゴットフリート]]にストレートで敗れた。全米オープンでも4回戦で[[ギレルモ・ビラス]]を破ったが、準々決勝で[[全豪オープン]]優勝者の[[ヨハン・クリーク]]([[南アフリカ共和国|南アフリカ]])に 6-4, 2-6, 6-3, 1-6, 6-7 のフルセットで敗れ(最終第5セットは[[タイブレーク]]による)、3大会連続で4強入りのチャンスを逃している。
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フィバクは[[ポーランド]]国内でも有数の美術品収集家として知られ、[[2001年]]に「フィバク・ギャラリー」を設立した。選手引退後は実業家として、多方面の事業を手がけている。
 
== 関連項目 ==
フィバクの全盛期から四半世紀あまり後、[[2008年]]7月に[[アニエスカ・ラドワンスカ]]がポーランド人女性として史上初の世界トップ10入りを成し遂げた。
* [[テニス]]
== 外部リンク ==
* {{ATP|id=F020|name=ヴォイチェフ・フィバク}} (生年月日に「8月3日」の誤記あり)
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* [http://www.tenisportal.com/syl-fibak.php ポーランド・テニスポータルによるフィバクの紹介] (ポーランド語)
* [http://www.galeriafibak.com.pl/01.htm フィバク・ギャラリー] (ポーランド語)
== 参考文献 ==
[[Category:ポーランドのテニス選手|ふいはく うおいちえふ]]
* バド・コリンズ著『テニスのすべて-究極のテニス百科事典』(英語、2003年刊、ISBN 0973144343、スポーツ・クラシック・ブックス)
[[Category:1952年生|ふいはく うおいちえふ]]
* ATPシニアツアー発行「シニア・プレーヤーズ・ガイド」1992年版 (シニアツアーの公式ガイドブック)
 
[[Category{{DEFAULTSORT:1952年生|ふいはく  うおいちえふ]]}}
[[Category:ポーランドのテニス選手|ふいはく うおいちえふ]]
[[Category:1952年生]]
[[de:Wojciech Fibak]]
[[en:Wojciech Fibak]]