「伊東塚」の版間の差分

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[[元亀]]3年([[1572年]])、[[伊東義祐]]と[[薩摩国]]を本拠とする[[島津義弘]]とのあいだの[[木崎原合戦]]において敗死した伊東加賀守、伊東又次郎、伊東新次郎、米良筑後守をはじめとする諸将の墓である。この合戦を境に日向における伊東氏の勢力は徐々に衰退し、南九州地方には島津氏の勢力が拡大することとなる。
 
元は小林市真方の因幡塚にあった昌寿寺に作られた墓であるが、[[明治]]の[[廃仏毀釈]]により寺がなくなり墓碑のみが残った。とはいえ元々は、伊東家の士分クラス200余人分の供養塔が建てられていたが、現在は[[伊東祐安|伊東加賀守]]、[[伊東又次郎]]、[[伊東祐信|伊東新次郎]]、[[稲津又三郎]]、[[上別府宮内少輔]]、[[米良重方|米良筑後守]]、[[米良喜右介]]、[[米良式部少輔]]、[[野村四郎佐衛門]]の9基を残すのみとなっている。
 
すべて供養塔であるため、その下に遺体は存在しない。彼らの首級は木崎原古戦場跡([[宮崎県]][[えびの市]])の傍にある[[首塚]]にまとめて葬られている。唯一、米良筑後守のみ[[須木城]]下の米良家菩提寺である一寺(現在は廃寺)に、首級が返されそこへ弔われている。
 
[[慶安]]3年([[1650年]])、[[島津氏]]家臣・[[五代友喜|五代勝左衛門]]の子孫により、これらの霊を慰めるために[[五輪塔]]が建立されている。