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== 人物像 ==
一般には彼の開いた塾の名をとって梅の舎(うめのや)と呼ばれた。若い頃[[漢学]]を学び、壮年になってから[[京都]]に出て、[[浅見絅斎]]の高三傑のひとり一人であった西依成斎の門にはいって、儒学を修めた。1792年、29歳の時に伊勢に行き[[本居宣長]]のもとで学び、その高弟の一人になった。その後郷里に帰り梅の舎塾を開いた。この時から杵築は中国地方における国学の先進地となり、他国からの留学生がたくさんみられるようになった。寛政十二年の梅の舎塾の門人録には二百二十220人もの名が記録されている。
 
俊信は[[内山真竜]]の門にも学び、竜門七士に数えられた。国学、神学(主として垂加神道)、歌道にも通じたほか、槍術、医学、天文、三弦、茶道の諸学、諸芸に達し、霊能力も備えていたといわれる。
 
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