「イラリオン (キエフと全ルーシの府主教)」の版間の差分

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== 経歴 ==
 [[府主教]]就任以前は、[[キエフ]]近郊にある公所有の[[ベレストヴォ]]村にあった聖使徒教会にて[[修道司祭]]を勤めていた。当時の上流社会の一員であったようであり、恐らくは名門の出身。高い教養で当時知られており、[[1048年]]頃に[[フランス王国|フランス]]宮廷への使節に参加した。しかし要職に就く以前には[[隠修士]]であった。後代の[[ペチェルスキー修道院聖者列伝]]等によれば、後に[[キエフ・ペチェールシク大修道院|ペチェルスキー修道院]]が建設される場所の地下洞窟で隠修士として修行をしていたとされる。
 
 [[1050年]]にギリシア人府主教[[フェオペンプト]]が亡くなると、教会の問題でビザンツから距離を置こうとする[[ヤロスラフ1世|ヤロスラフ]]大公(1世・賢公)の意向に従い、1051年にルーシの教会会議はイラリオンを府主教に選んだ。
 
 [[1052年]]にはヤロスラフが建設した[[聖ゲオルギー修道院]]内にあった石造の聖ゲオルギー教会を献堂した。
 
 1054年、ヤロスラフの後を追うように、イラリオンも亡くなった。
 
== 事蹟 ==
 [[旧約聖書|旧約]]の神と[[新約聖書|新約]][[イエス・キリスト|キリスト]]とを対比的に描きつつ、後者を一段と称えた「[[律法と恩寵についての講話]]」が彼の著作では最もよく知られる。その他、数編の説教を残している。
 
{{先代次代|[[キエフと全ルーシの府主教 (キエフと全ルーシの府主教)|キエフと全ルーシの府主教]]|1051年 - 1054年|[[フェオペンプト (キエフと全ルーシの府主教) |フェオペンプト]]|[[エフレム (キエフと全ルーシの府主教) |エフレム]]}}