「ドリス・ハート」の版間の差分

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'''ドリス・ハート'''('''Doris Hart''', [[1925年]][[6月20日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ミズーリ州]][[セントルイス]]出身の女子[[テニス]]選手。[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]の終戦直後の時代に活躍し、[[1940年代]]後半から[[1950年代]]前半にかけて、テニス4大大会の女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を達成した名選手である。女子シングルスで総計6勝、女子ダブルスで総計14勝、混合ダブルスで総計15勝を挙げ、生涯で「35」のグランドスラム・タイトルを獲得した。幼少期に患った足の病気をものともせず、頭脳的で安定したオールラウンド・プレーヤーとして一世代をリードした。フルネームは ''Doris Jane Hart'' (ドリス・ジェーン・ハート)という。
 
ドリス・ハートは幼少時代に深刻な膝の感染症を患い、「このままでは身体障害者になるおそれがある」と診断されたことから、治療のために6歳から[[テニス]]を始めた。当時の医学上の診断では、彼女の病気は「[[急性灰白髄炎|小児麻痺]]」と言われた。(後に、この診断は誤りであると分かった。)病気の影響のため、彼女の足は“弓のように曲がり、動きがおぼつかなく見える”外見になったが、それにもめげず回復してテニス選手になることができた。早くも[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]中の[[1942年]]、ハートは17歳で[[1942年全米オープン (テニス)選手権|全米選手権]]の女子ダブルス決勝に初進出を果たす。当時の全米選手権では、[[マーガレット・オズボーン・デュポン|マーガレット・オズボーン]]と[[ルイーズ・ブラフ]]組が[[1942年全米テニス選手権|1942年]]から[[1950年全米テニス選手権|1950年]]まで女子ダブルス部門に「9連覇」中で、その期間中にハートは7度の女子ダブルス準優勝の壁にぶつかった。[[1947年]]に[[ウィンブルドン選手権]]の女子ダブルスで、[[パトリシア・トッド]]と組んで初優勝を飾ったが、ここからハートの4大大会生涯「35勝」の記録が始まった。続いて、同じトッドとのペアで[[1948年]]の[[全仏オープン|全仏選手権]]女子ダブルスに優勝する。[[1949年]]の[[全豪オープン|全豪選手権]]で、ハートは女子シングルスにも初優勝を飾り、地元[[オーストラリア]]のベテラン選手[[ナンシー・ウィン・ボルトン]]を破って優勝した。全豪選手権には[[1949年]]と[[1950年]]の2度しか出場しなかったが、女子シングルス優勝[[1949年]]・女子ダブルス優勝[[1950年]]・混合ダブルス2年連続優勝の記録を残している。[[1950年]]には[[全仏オープン|全仏選手権]]の女子シングルス優勝があった。
 
[[1947年]]に[[1947年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]の女子ダブルスで、[[パトリシア・カニング・トッド|パトリシア・トッド]]と組んで初優勝を飾り、ここからハートの4大大会生涯「35勝」の記録が始まった。続いて、同じトッドとのペアで[[1948年]]の[[1948年全仏テニス選手権|全仏選手権]]女子ダブルスに優勝する。[[1949年]]の[[1949年全豪テニス選手権|全豪選手権]]で、ハートは女子シングルスにも初優勝を飾り、地元[[オーストラリア]]のベテラン選手[[ナンシー・ウィン・ボルトン]]を破って優勝した。全豪選手権には1949年と[[1950年全豪テニス選手権|1950年]]の2度しか出場しなかったが、女子シングルス優勝[[1949年全豪テニス選手権|1949年]]・女子ダブルス優勝[[1950年全豪テニス選手権|1950年]]・混合ダブルス2年連続優勝の記録を残している。[[1950年]]には[[1950年全仏テニス選手権|全仏選手権]]の女子シングルス優勝があった。
長い間立ちはだかった大きな壁を乗り越えて、ドリス・ハートのテニス経歴が大きく開花したのは[[1951年]]に入ってからである。この年、彼女は[[ウィンブルドン選手権]]の女子シングルス決勝戦でダブルス・パートナーの[[シャーリー・フライ]]を 6-1, 6-0 で圧倒した。相手にわずか1ゲームしか与えず、試合時間は35分で終了した。ウィンブルドン選手権の女子シングルスでは[[1947年]]と[[1948年]]に2年連続準優勝があったため、ハートにとっては“3度目の正直”の優勝だった。この年から、ハートは[[ウィンブルドン選手権]]の混合ダブルス5連覇([[1955年]]まで)、[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]の女子ダブルス4連覇([[1954年]]まで)、全米選手権の混合ダブルス5連覇([[1955年]]まで)を記録し、ダブルスでも黄金期を迎えた。シングルスでは、[[1953年]]に[[モーリーン・コノリー]]が女子テニス史上初の「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」を達成したが、ハートやフライたちはコノリーのライバルであった。
 
長い間立ちはだかった大きな壁を乗り越えて、ドリス・ハートのテニス経歴が大きく開花したのは[[1951年]]に入ってからである。この年、彼女は[[1951年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]の女子シングルス決勝戦でダブルス・パートナーの[[シャーリー・フライ]]を 6-1, 6-0 で圧倒した。相手にわずか1ゲームしか与えず、試合時間は35分で終了した。ウィンブルドン選手権の女子シングルスでは[[1947年ウィンブルドン選手権|1947年]]と[[1948年ウィンブルドン選手権|1948年]]に2年連続準優勝があったため、ハートにとっては“3度目の正直”の優勝だった。この年から、ハートは[[ウィンブルドン選手権]]の混合ダブルス5連覇([[19551951年ウィンブルドン選手権|1951年]]まで)、-[[全米オープ1955年ウィ (テニス)ブルドン選手権|1955年]])、全米選手権]]の女子ダブルス4連覇([[1951年全米テニス選手権|1951年]]-[[1954年全米テニス選手権|1954年]]まで)、全米選手権の混合ダブルス5連覇([[1951年全米テニス選手権|1951年]]-[[1955年全米テニス選手権|1955年]]まで)を記録し、ダブルスでも黄金期を迎えた。シングルスでは、[[1953年]]に[[モーリーン・コノリー]]が女子テニス史上初の「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」を達成したが、ハートやフライたちはコノリーのライバルであった。
ドリス・ハートにとって、最後の壁は[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]女子シングルスのタイトルであった。ここでも彼女は何度も苦杯をなめ、[[1949年]]と[[1950年]]、[[1952年]]と[[1953年]]に4度の準優勝に甘んじていた。とりわけ、[[1952年]]と[[1953年]]の決勝では2年連続で[[モーリーン・コノリー]]に敗れ、[[1953年]]の全米選手権決勝では 2-6, 4-6 で敗れたハートが、コノリーによる女子テニス史上初の「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」を目撃した。ところが、[[1954年]]の[[ウィンブルドン選手権]]優勝で4大大会女子シングルス通算「9勝」を記録したコノリーが、全米選手権の開幕直前に落馬事故で選手生命を絶たれてしまう。コノリーの事故の後、ハートは[[1954年]]の[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]で女子シングルス初優勝を果たし、長年の壁だった[[ルイーズ・ブラフ]]を 6-8, 6-1, 8-6 で破り、最後の難関を乗り越えた。これで、ハートはテニス4大大会の3部門すべてに「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を完成させた。これをテニス界では「ボックス・セット」(Boxed Set)と呼ぶ。ハートの優勝記録は[[1955年]]にすべて幕を閉じたが、これで[[1947年]]から積み上げてきたタイトルの数は総計「35勝」となった。幼少期の難病と多くの先輩選手たちの厚い壁を乗り越えたドリス・ハートは、[[1969年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
 
ドリス・ハートにとって、最後の壁は[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]女子シングルスのタイトルであった。ここでも彼女は何度も苦杯をなめ、[[1949年全米テニス選手権|1949年]]と[[1950年全米テニス選手権|1950年]]、[[1952年全米テニス選手権|1952年]]と[[1953年全米テニス選手権|1953年]]に4度の準優勝に甘んじていた。とりわけ、[[1952年]][[1953年]]の決勝では2年連続で[[モーリーン・コノリー]]に敗れ、[[1953年]]の全米テニス選手権|1953年全米選手権]]の決勝では 2-6, 4-6 で敗れたハートが、コノリーによる女子テニス史上初の「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」を目撃した。ところが、[[1954年]]の[[1954年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]優勝で4大大会女子シングルス通算「9勝」を記録したコノリーが、全米選手権の開幕直前に落馬事故で選手生命を絶たれてしまう。コノリーの事故の後、ハートは[[1954年]]の[[1954年全米オープン (テニス)選手権|全米選手権]]で女子シングルス初優勝を果たし、長年の壁だった[[ルイーズ・ブラフ]]を 6-8, 6-1, 8-6 で破り、最後の難関を乗り越えた。これで、ハートはテニス4大大会の3部門すべてに「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を完成させた。これをテニス界では「ボックス・セット」(Boxed Set)と呼ぶ。ハートの優勝記録は[[1955年]]にすべて幕を閉じたが、これで[[1947年]]から積み上げてきたタイトルの数は総計「35勝」となった。幼少期の難病と多くの先輩選手たちの厚い壁を乗り越えたドリス・ハートは、[[1969年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
== 4大大会優勝 ==
* [[全豪オープン|全豪選手権]] 女子シングルス1:1勝(1949年)/女子ダブルス1:1勝(1950年)/混合ダブルス2:2勝(1949年&1950年)
* [[全仏オープン|全仏選手権]] 女子シングルス2:2勝(1950年、1952年)/女子ダブルス5:5勝(1948年、1950年-1953年)/混合ダブルス3:3勝(1951年-1953年)
* [[ウィンブルドン選手権]] 女子シングルス1:1勝(1951年)/女子ダブルス4:4勝(1947年、1951年-1953年)/混合ダブルス5:5勝(1951年-1955年)
* [[全米オープン (テニス)|全米選手権]] 女子シングルス2:2勝(1954年&1955年)/女子ダブルス4:4勝(1951年-1954年)/混合ダブルス5:5勝(1951年-1955年)
== 関連項目 ==
* [[テニス]]
== 外部リンク ==
* [http://www.tennisfame.com/famer.aspx?pgID=867&hof_id=139 国際テニス殿堂(英語)]
[[Category:アメリカ合衆国のテニス選手|はあと とりす]]
[[Category:1925年生|はあと とりす]]
 
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[[Category:アメリカ合衆国のテニス選手|はあと とりす]]
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[[de:Doris Hart]]
[[en:Doris Hart]]
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