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'''ヨロ・モルガヌグ'''('''Iolo Morganwg''','''Morgannwg''' [[1747年]][[5月10日]] - [[1826年]][[11月18日]] 本名'''エドワード・ウィリアムズ''')は、[[ウェールズ]]の古物収集家・[[詩人]]・文学[[贋作]]者。<ref>http://yba.llgc.org.uk/en/s-WILL-EDW-1747.html Welsh Biography Online</ref>ヨロ・モルガヌグは詩人名で、「グラモーガンのネッド(ネッドはエドワードの愛称)」を意味する[[ウェールズ語]]。
 
エドワード・ウィリアムズは[[ウェールズ]]の[[グラモーガン]]郡のスランカーファンに生まれ、家族が[[フレミングストン]]に引っ越すとそこで石工として生活していた。彼が主導して[[吟遊詩人]]の儀式と哲学を再興したことは、ヨロ・モルガヌグとしての功績として語られる。彼の詩人としての師は[[ティル・ラース]]の[[シオン・ブラッドフォード]]。ヨロは一般にウェールズで最高の詩人と呼ばれるグウィリムの息子[[ダフィズ]]の未発見の詩を最初に発見したことで有名になった。実のところこれらの詩は[[贋作]]だったのだが、100年以上にわたって批判や注目に耐えた。この成功によりヨロは[[ロンドン]]に移り、ウェールズ社会の代表者として、史上初の[[ゴルセッズ]](Gorsedd 吟遊詩人のコミュニティ 原義は「玉座」を意味するウェールズ語)となるGorsedd Beirdd Ynys Prydain(アイスランド・ブリテンの吟遊詩人のゴルセッズ)を設立した。ヨロはその後もきわめて多くの作品を発表して(現在ではそのほとんどが偽作と考えられている)古代の[[ドルイド]]の伝統が、[[ローマ帝国]]の征服やキリスト教、[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]による詩人の迫害などの逆境にもかかわらず[[ウェールズ]]に現存していると主張した。
 
ヨロの思想は、[[キリスト教]]と[[アーサー王伝説]]の融合、[[ウィリアム・ブレイク]]やスコットランドの詩人・偽作者[[ジェームス・マクファーソン]]と同等の原始[[ロマン派]]、[[ケルト]]に関する古典復興の情熱、[[ウェールズ語]]の詩に現存する吟遊詩人の遺産などがある。ヨロの目的には、北ウェールズがウェールズの伝統を最も色濃く受け継いでいるという定説に反して、南ウェールズ、特に故郷のグラモーガンのウェールズ文化をアピールすることも含まれていた。
 
当時のロマン派の詩人が多くそうであったように、生涯を通じて[[アヘン]]([[アヘンチンキ]])中毒であった。このことが彼の精神状態に影響したとも考えられる。
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* [http://www.sacred-texts.com/neu/celt/bim1/index.htm The Barddas of Iolo Morganwg, vol. 2] (English text only) at The Internet Sacred Text Archive
 
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[[Category:ウェールズ史の人物|もるかぬく]]
[[Category:1747年生]]
[[Category:1826年没]]
 
[[af:Iolo Morganwg]]