「阿部定吉」の版間の差分

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[[1535年]]、清康が[[尾張]]の[[織田信秀]]([[織田信長]]の父)と対決すべく尾張への侵攻を開始したとき、突如として陣中に定吉謀反の噂が流れた。これは信秀の謀略であったとも言われているが、清康はあまり定吉を信頼していなかったらしく、この噂を信じ始めた。一方、定吉はもし自分が清康に成敗されるようであればそれまでだったと覚悟を決め、息子の[[阿部正豊|阿部弥七郎正豊]]を呼んで、「もし自分が討たれるようなことがあったら、わしの無実を証明してくれ」と潔白を示す書状を弥七郎に託した。
 
その数日後、弥七郎は清康の馬が暴れ出したのを見て父が討たれたのだと勘違いして、清康を誤殺してしまった。勿論、弥七郎も即座に[[植村氏明|植村新六郎氏明]]に殺された。定吉もこのとき、責任を取って自害しようとしたが、なぜか清康の嫡男・[[松平広忠]](家康の父)は定吉を許し、そのまま家臣とした。その後、定吉は三河衆をよく取りまとめることに功を挙げた。
 
なぜ広忠が父を殺した男の父を許したのかは不明であり、戦国の謎の一つといえる。
 
その後、[[岡崎城]]は清康の叔父・[[松平信定]]と、清康の弟・[[松平信孝]]に占領されたため(武力で奪ったわけではないが)、広忠主従は[[伊勢]]の[[吉良持氏]]を頼った。その後[[駿河]]の[[今川義元]]を頼り、その兵を借りて、[[大久保忠俊]]や信定と不仲になっていた信孝らの協力で、岡崎城復帰を果たした。
清康の叔父・[[桜井松平家|桜井松平]][[松平信定|内膳信定]]を主謀者と勘ぐる説もある。確たる証拠は無いものの、当時の信定が清康とは険悪関係にあった点、松平一門の中で親・織田派であった点、清康死後には宗家簒奪を試みた点から容疑者に挙げられている。
 
しかしその後、定吉は自身の政敵でもあるが広忠に忠実に仕えていた信孝を、広忠をたぶらかして、信孝が駿河の今川義元のもとに出向いていた隙に信孝の三木城を攻め落として追放した。その後、大久保忠俊も広忠から遠ざけられた。
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