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[[画像:Jdhodgson.jpg|thumb|労働省に展示されているジェームズ・ホジソンの肖像画]]
'''ジェイムズ・デイ・ホジソン'''(James Day Hodgson, [[1915年]][[12月3日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]、[[外交官]]。第一次[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]政権の[[労働長官]](1970-73年)および[[駐日アメリカ大使]](1974-77年)を務めた。
 
== 生涯 ==
[[ミネソタ州]][[ラクキパール郡]]ドーソン市生まれ。[[ミネソタ大学]]を卒業後、1941年[[ロッキード]]社に入社、[[第二次世界大戦]]中の[[アメリカ海軍]]勤務の時期を除き、同いて社内で一貫して労務畑を歩み、1968年には労使関係担当者として最高位の副社長に就任する。
 
その才能を見込まれ、1969年にはニクソン政権の労働次官に就任、1970年には行政管理予算局局長に移った[[ジョージ・シュルツ]]長官の後任として[[労働長官]]に就任する。また政権への参画の際、学生時代から親しかった[[ヒューバート・ハンフリー]]との関係で所属していた[[民主党 (アメリカ)|民主党]]より[[共和党 (アメリカ)|共和党]]へその党籍を移している。
 
第二次ニクソン政権では閣外に去り、1973年2月にはロッキード社副社長に復帰する。その後、[[ウォーターゲート事件]]の露呈によってニクソン政権への協力を拒否する財界人が目立つ中、後任が決まっていなかった駐日大使ポストへの就任を許諾、1974年7月15日から駐日アメリカ大使を務める。
 
1970年代初頭より続いた[[日米貿易摩擦]]についても、一時的に沈静化していた「日米無風時代」の駐日大使として、アメリカ大統領の初訪日となる1974年11月の[[ジェラルド・R・フォード|フォード]]訪日、1975年9月の[[昭和天皇]]の初訪米といった日米関係の深化に努力し、1977年2月5日に帰任した。
 
なお、この時期自らの出身企業も関与する汚職事件として評判になった[[ロッキード事件]]には、労務の専任であった関係から関与していない。