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'''桜  緋紗子'''(さくら  ひさこ、[[1914年]][[3月15日]] - [[2002年]][[3月20日]])は、日本の[[俳優|女優]]、元[[宝塚歌劇団]]娘役トップスター。宝塚退団後、[[新派]]を経て引退。その後[[仏門]]に入り'''小笠原日凰'''(おがさわら  にちおう)と名乗る[[尼僧]]となった。戦前の表記は'''櫻緋紗子'''で、現代でもこう表記されることがある。<br>
 
[[広島県]][[広島市]]大手町(現在の[[中区 (広島市)|中区]][[大手町 (広島市)|大手町]])生まれ。本名=小笠原不二子、旧姓名=神崎。宝塚時代の愛称は'''カンちゃん'''。
 
==来歴・人物==
父親は[[毎日新聞]]広島支局の[[記者]]だったが、小学校の時[[大阪]]に転勤。[[1926年]]、中学からは[[高等女学校|女学部]]が新設された[[学校法人帝塚山学院|帝塚山学院]]の[[帝塚山学院中学校・高等学校|帝塚山学院中学]]に進学。しかし[[阪東妻三郎]]がアメリカの[[ユニバーサル映画]]と提携して設立した「阪妻立花ユニヴァーサル聯合会社」の宣伝部長に父が迎えられたため、[[京都]]に移り精華高等女学校(現[[京都精華女子高等学校|京都精華女子高校]])に転校した。[[嵯峨野]]の自宅の隣に[[片岡千恵蔵]]プロが建ち、部屋の窓から俳優の姿が見えたという。[[1929年]]、叔父に勧められ女学校を中退して憧れていた[[宝塚音楽学校|宝塚音楽歌劇学校]]へ入校。[[1930年]]4月、[[宝塚歌劇団|宝塚少女歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]の生徒として『春のをどり』で初舞台を踏んだ。[[春日野八千代]][[葦原邦子]]は一期上、[[神代錦]]・[[園井恵子]]らは同期となる。特に寄宿舎で同室となった園井とは仲が良かった。芸名「桜緋紗子」は[[吉野山]]で見て感動した[[桜]]と有名な[[百人一首]]の[[紀友則]]の歌「久方の 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ」から付けた。
 
いい役に恵まれず4年が過ぎるが[[1933年]]11月、[[岸田辰彌]]に『プリンセスナネット』の主役に抜擢される。[[草笛美子]]の急病による降板で廻ってきたチャンスを掴んだ。[[1934年]]、[[星組 (宝塚歌劇)|星組]]に編入され『ラッキー・エール』のメリーを演じた後、『アルルの女』で[[男役]]スター・[[葦原邦子]]と組んでベルタを演じ、情熱的な瞳と可憐な雰囲気の娘役として売り出し、『憂愁夫人』で再び葦原と組んで[[ヒロイン]]・サラーを演じ圧倒的な人気を獲得した。その後『おゝハリエット』のハリエット、『飛鳥乙女』の阿佐香、『フロラ行状記』のフロラなどで華麗な舞台姿を見せ[[1937年]]、[[専科 (宝塚歌劇)|声楽専科]]に加えられ[[堀正旗]]演出の『黎明』で[[小夜福子]]とコンビを組み、『忘れじの歌』のジェイン、『スヰート・メロディ』のコンスタンチナ、『レッドホット・アンドブルウ』のグロリア、『白鳥の死』のケーテなど、カンちゃんの愛称で宝塚のプリマドンナとして一時代を築いた。
 
しかし将来舞台女優として生きたいという希望があって[[1940年]]3月、宝塚を退団し[[新派劇|新生新派]]入り。これにあたり[[川口松太郎]]や[[水谷八重子 (初代)|水谷八重子]]らの尽力があった。同年[[明治座]]『平和な物語』で初舞台、また[[新興キネマ]]の『晴小袖』や『国姓爺合戦』など[[映画]]にも出演した。その後新派の後援者と結婚し新派を退くが1年で離婚。心機一転、知人の紹介で[[日本橋]]にあった呉羽航空機(現[[三菱ふそうバス製造]])に就職、支社長秘書となる。戦後は[[有楽町]]の[[洋裁|洋裁店]]で働く。再開された宝塚の[[越路吹雪]]、[[淡島千景]]、[[乙羽信子]]、[[久慈あさみ]]らが桜の名を聞き店に立ち寄った事で、[[銀座]]四丁目に共同で宝塚ファン向けの[[ブロマイド]]や[[土産物]]を扱う「カトレア」を開店。カトレアは当時桜が好きだった[[ラン科|蘭]]の花から名付けたものだが、東京では初めての店名であったという。宝塚グッズは売れに売れ店は大盛況であったが、商売抜きに宝塚生徒とファンの集いや、現役生徒と卒業生の合同公演を企画するなどで利益は出なかった。しかし愛する宝塚のため、宝塚卒業生の会「宝友会」を結成した。宝塚[[OG]]は結束が固く退団後も交友が続き、現在も年1回開かれる「宝友会」総会には数千人が集うという。[[1951年]]自動車事故に遭い足を骨折、これを機に店は畳む。[[日本放送協会|NHK]][[ラジオドラマ]]で復帰後、本流と新生が合流した新派にも復帰。[[1961年]]フリーとなり[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]]』や『[[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]]』などに出演。[[1965年]]2月、人生の不安感から芸能界を引退、49歳で仏門に入ると発表すると大騒ぎとなった。