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[[image:André Rigaud.gif|thumb|right|アンドレ・リゴー]]'''アンドレ・リゴー''' ('''André Rigaud''', [[1761年]] - [[1811年]]) は[[ハイチ革命]]時の[[ムラート]]軍の指導者。彼の庇護下から[[アレクサンドル・ペション]]や[[ジャン・ピエール・ボワイエ]]らが出た。
 
リゴーは[[レカイ|オカイ]]でフランス人[[執行吏]]と[[黒人]]の母アラダの子として生まれ、[[ボルドー]]に渡り貴金属加工を身に付けた。[[1779年]]にはデスタン将軍が率いた[[アメリカ独立戦争]]へのサン=ドマングの自由有色人種の義勇軍に参加した。
 
== ハイチ革命 ==
ハイチ革命時の[[サン=ドマング]]において自由有色人種の利益の擁護者として[[ヴァンサン・オジェ]]と[[ジュリアン・レイモン]]の後継者となり、[[人間と市民の権利の宣言|フランス人権宣言]]をすべての自由市民の権利の平等を保障するものと訳し、フランス革命政府と手を結んだ。
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リゴーは[[1802年]]トゥーサンの排除とサン=ドマング再植民地化を図った[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の義弟の[[シャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール|シャルル・ルクレール]]率いるフランス遠征軍と共にサン=ドマングに戻った。[[フランス第一共和政]]下で[[1974年]]に奴隷制が廃止されて、[[サトウキビ]]と[[コーヒー]]の[[プランテーション]]で利益を上げていた植民地システムが崩壊した。ルクレールの遠征は奴隷制の再建を企てたものであった。3年に亘る戦争の末ハイチ共和国軍はサン=ドマングをタイノ語の[[ハイチ]]に戻し独立を果たした。リゴーは遠征の失敗の責任を負わされ、ライバルのトゥーサンと共にフランスへ送られ、トゥーサンが亡くなったと同じ[[ジュー要塞]]に一時収監された。リゴーは最後の反乱として船上でそのサーベルを海へ投げ捨てた。
 
[[1810年]]12月リゴーはペションにも[[アンリ・クリストフ|クリストフ]]にも反した[[南県 (ハイチ)|南県]]を領域とする''半島国''の大統領に自ら就任し3度目の帰還を果たした。死後半島国はペションに回復された。
 
== 脚註 ==
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== 外部リンク ==
*[http://thelouvertureproject.org/wiki/index.php?title=André_Rigaud André Rigaud -], ''The Louverture Project'']
 
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[[Category:ハイチの人物]]
[[Category:1761年生]]