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'''間人皇女'''(はしひとのひめみこ、生年不詳 - [[天智天皇]]4年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]([[665年]][[3月16日]]))は[[飛鳥時代]]の[[皇族]]。'''間人大后'''とも。[[孝徳天皇]]の皇后。父は[[舒明天皇]]、母は[[皇極天皇]](斉明天皇)。天智天皇の同母妹、[[天武天皇]]の同母姉に当たる。
 
[[乙巳の変]]([[645年]]6月)により皇極天皇が譲位し、軽皇子([[孝徳天皇]])が即位する。間人皇女はそれに伴い皇后となり、葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)を皇太子とし、[[大化]]の年号が採用された。大化元年([[646年]])末に、[[板蓋宮|飛鳥板蓋宮]]から[[難波長柄豊崎宮|難波長柄豊碕宮]]に遷都する。葛城皇子は孝徳の治世下で実質的に改革を推進しており、天皇と不仲になっていたらしい。[[白雉]]4年([[653年]])に葛城皇子は天皇の意に反し、皇極や間人皇女の他、多くの官僚を率いて飛鳥に戻ってしまう。天皇はこれを恨み退位も考えたが、山碕(後の[[京都府]][[乙訓郡]])に宮殿を造営中に病に倒れ、白雉5年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]([[654年]])に難波の宮殿で崩御した。
 
この間、天皇が皇后である間人皇女に宛てた歌が『[[日本書紀]]』に残されている。