「BMSスクーデリア・イタリア」の版間の差分

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[[1989年]]の[[カナダグランプリ|カナダGP]]では[[アンドレア・デ・チェザリス]]が、[[1991年]]のサンマリノGPでは[[J.J.レート]]がそれぞれ3位表彰台を獲得する健闘を見せ、中堅チームとしての地位を固めた。
 
[[1992年]]からは[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]からカスタマー仕様でエンジン供給を受けることとなったが、本体のフェラーリ自体が再低迷期にあったこともあって、更なる飛躍を果たすことはできなかった。
 
翌1993年にはそれまでのダラーラ製シャシーの戦闘力に不満を持っていたチームは、製作委託先を[[ローラ]]社製にスイッチするしたが、これが全くチーム転落戦闘力不足第一歩となってしまう。ローラが制作したシャシーは完全な失敗作で、かつての名手[[ミケーレ・アルボレート]]をもってしてもテールエンダーを脱することさえ難しく、ついにこのシーズンをもってスクーデリア・イタリアは同じイタリアの[[ミナルディ]]チームとの合併の道を選ぶこととなった。
 
その後も[[1995年]]まではミナルディの支援を続けていたが、同年末にこの関係を解消し、F1界から去ることになった。以後はツーリングカーレース等に参戦をしている。
 
1992年までは[[マールボロ (タバコ)|マールボロ]]のスポンサーを受けており、かつマシンのカラーリングが赤であったことから[[フェラーリ]]と見間違われることが度々あり、1992年はフェラーリエンジンを搭載していたことから、「にせ者」と揶揄する声もあった。
 
== 在籍していたドライバー ==