「ホリールード寺院」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
VolkovBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: es:Abadía de Holyrood
編集の要約なし
1行目:
[[Image:Holyrood Abbey - Edinburgh.jpg|thumb|250px|right|ホリールード寺院の廃墟]]
'''ホリールード寺院''' ('''Holyrood Abbey''')は、[[スコットランド]]・[[エディンバラ]]にかつてあった[[アウグスティヌス]]派寺院で、現在は廃墟となっている。寺院は、1128年にスコットランド王[[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]により建てられた。現在、寺院の廃墟の隣には[[ホリールード宮殿]]が建っている。
 
==名前の由来==
"ルード"とは古い言葉で『十字架』の意味である。デイヴィッド1世が森で狩りの最中苦難に遭遇したとき、角の間に光り輝く十字架を持つ牡鹿から命を救われたため、その場所に教会を寄進したという伝説がある。
 
"ルード"とは古い言葉で『十字架』の意味である。デイヴィッド1世が森で狩りの最中苦難に遭遇したとき、角の間に光り輝く十字架を持つ牡鹿から命を救われたため、その場所に教会を寄進したという伝説がある。
 
 
 
===寺院創設の伝説===
[[Image:HolyroodAbbeyRuin200411 CopyrightKaihsuTai.jpg|thumb|left|300px|宮殿に隣接した寺院の廃墟]]
1127年、デイヴィッド1世はエディンバラ近郊の森へ狩りに出かけた。獲物を見つけた彼は突然、牡鹿の2本の角に危険を感じた。上ストラスクライドのクロフォード氏族であるジョハンズとグレガンの2人兄弟が、王を救出した。謝意を表し、王は兄弟たちを騎士に取り立て、同じ年にホリールード寺院を建てた。その逸話から、のちクロフォード家の分家が、寺院創設を記念して金の十字架を角の間にいただく牡鹿の紋章を採用した。この一族はモットー''Tutum Te Robore Reddam''(私たちの力はあなたを救うためにある)を用いた。
 
==歴史と廃墟==
[[Image:HolyroodAbbeyRuin200411 CopyrightKaihsuTai.jpg|thumb|left|300px|宮殿に隣接した寺院の廃墟]]
15世紀から、多くの戴冠式と結婚式がこの寺院で執り行われた。多くの弾圧や略奪も受けた。[[イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]と[[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]]による『手荒な結婚申し入れ』(まだ幼い[[メアリー1世 (スコットランド女王)|メアリー1世]]と、ヘンリー8世の嫡子[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード]]の結婚でスコットランド王位を手に入れようとした事件)の間、1544年にハートフォード伯により寺院は略奪の被害にあい、護国卿サマセット公は建物に損害を与えた。ジェームズ7世(イングランド王としては[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]])は、ホリールード宮殿に[[イエズス会]]派の大学を建て、1688年5月に寺院を[[ローマ・カトリック教会]]の教会堂にさせた。[[プロテスタント]]の会衆らは自分たちの祈りの場として、新しいカノンゲイト教会を設立した。同じ年の11月、オラニエ公ヴィレム([[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]として即位する)による[[名誉革命]]が起き、それまでのカトリック優遇の反動からエディンバラ市民は教会や王室納骨堂の略奪に走った。寺院の屋根を含む復興活動が1758年になされたが、屋根は1768年の大暴風で被害を受け、現在まで廃墟のままになっている。
15世紀から、多くの戴冠式と結婚式がこの寺院で執り行われた。多くの弾圧や略奪も受けた。
 
[[イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]と[[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]]による『手荒な結婚申し入れ』(まだ幼い[[メアリー1世 (スコットランド女王)|メアリー1世]]と、ヘンリー8世の嫡子[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード]]の結婚でスコットランド王位を手に入れようとした事件)の間、1544年にハートフォード伯により寺院は略奪の被害にあい、護国卿サマセット公は建物に損害を与えた。
 
15世紀から、多くの戴冠式と結婚式がこの寺院で執り行われた。多くの弾圧や略奪も受けた。[[イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]と[[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]]による『手荒な結婚申し入れ』(まだ幼い[[メアリー1世 (スコットランド女王)|メアリー1世]]と、ヘンリー8世の嫡子[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード]]の結婚でスコットランド王位を手に入れようとした事件)の間、1544年にハートフォード伯により寺院は略奪の被害にあい、護国卿サマセット公は建物に損害を与えた。ジェームズ7世(イングランド王としては[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]])は、ホリールード宮殿に[[イエズス会]]派の大学を建て、1688年5月に寺院を[[ローマ・カトリック教会]]の教会堂にさせた。[[プロテスタント]]の会衆らは自分たちの祈りの場として、新しいカノンゲイト教会を設立した。同じ年の11月、オラニエ公ヴィレム([[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]として即位する)による[[名誉革命]]が起き、それまでのカトリック優遇の反動からエディンバラ市民は教会や王室納骨堂の略奪に走った。寺院の屋根を含む復興活動が1758年になされたが、屋根は1768年の大暴風で被害を受け、現在まで廃墟のままになっている。
 
==ディーエル・プレイスのホリールード・アベイ教会==
24 ⟶ 25行目:
かつてのホリールード自由連合教会の建物は宮殿に隣接し、長年店舗として使用されてきた。2003年、広範囲に改修され、[[イギリス王室]]の収集品を展示する『クイーンズ・ギャラリー・エディンバラ』として再オープンした。
 
{{coor title dms|55|57|11.38|N|3|10|17.67|W|type:landmark}}
{{DEFAULTSORT:ほりるとしいん}}
[[Category:教会堂]]