「クリスチャン6世 (デンマーク王)」の版間の差分

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クリスチャン王の敬虔主義の視点は、もちろん、彼の教会政策に大きな影響を与えた。表面上は王は勝利を収めていたが、牧師たちと多くの人々はひそかに王の路線に抵抗し、そして彼の死後には敬虔主義は公的な庇護を失った。それはその時代、[[ハンス・アドルフ・ボルソン]]ほか文筆家の多くの詩に多大な影響をあたえた。もう一つの王の努力の結果は[[1736年]]の「[[秘蹟]]の確証」(confirmation)の導入であった。
 
敬虔主義と(adscription)に加えて、クリスチャン6世と「活動の建築」は結びついていて、彼はもしかしたら18世紀に最も偉大な建設家だったかもしれない。彼の王妃もまた特筆すべき努力をした。彼の業績のなかでは[[クリスチャンスボー城]]([[1732年]]から翌年造営。[[1794年]]焼失。再建)、[[シェラン島]]北部の[[ヒルスホルム宮殿]](現在の[[ヒルスホルム]]庁。[[1737年]]から[[1739年]]に造営。[[1812年]]破壊)、そしてEremitage(1734年から1736年に造営。現存している)がある。それらの豪華な建造物は、権力を誇示する目的で建設されたが、臣民に対しては経済的負担となった。
 
彼の外交政策は平和的なものであり、デンマークは厳格な中立を維持した。貿易と商業は進歩の時代であり、幾つかの銀行と企業が設立された。クリスチャン6世の晩年、[[スウェーデン]]では、[[ヘッセン王朝]]の断絶が明らかになると、平和理に自家[[オルデンブルク朝|オレンボー家]]を推戴したが、[[ロシア帝国]]の強い意向で、オレンボー家の分家の1つ[[ホルシュタイン=ゴットルプ家]]が成り代わった。