削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
4行目:
{{武士/死没|[[1603年]]([[慶長]]8年)か?諸説有り}}
{{武士/改名|村上国清、山浦国清、景国}}
{{武士/別名|源五(源吾)}}
{{武士/墓所|不明}}
{{武士/官位|未詳}}
11行目:
{{武士/父母|父:[[村上義清]](孫説有り) <br> 生母:[[小笠原長棟]]の娘}}
{{武士/妻|正室:'''[[上杉輝虎]]の養女'''([[朝倉義景]]の娘?)}}
{{武士/子|[[山浦幸清|幸清]]、[[山浦高国|高国]] 養子:'''''[[山浦光則|光則]]'''''?}}
{{武士/終了}}
 
'''山浦 景国'''(やまうら かげくに)は[[日本]]の[[戦国時代 (日本)|戦国期]]の[[武将]]。
 
天文22年([[1553年]])、父と供に[[武田信玄]]に追われて[[上杉謙信]](当時は長尾景虎)を頼ってその融子となり、謙信の養女を娶る。後に[[上杉氏]]の一門である'''[[山浦上杉家]]'''(当時断絶していた)を継いで'''山浦国清'''と名乗る。初め、客将として謙信に仕え、[[川中島の戦い]]や越中の戦いなど、謙信に従って各地を転戦。謙信死後は[[上杉景勝]]に仕えて[[御館の乱]]の功績により、景勝から一字を与えられて'''山浦景国'''と名乗ることを許された。
 
[[1582年]]には、[[松代城|海津城]]主となり父の旧領を回復する。天正18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐|小田原攻め]]では上杉軍の先鋒を務めて活躍する。

慶長3年([[1598年]])、景勝の[[会津]]移封に従って塩之森城代となり、慶長5年([[1600年]])、[[関ケ原の戦い]]にも参陣したといわれているが、以後の消息は不明である。勇猛な武将であったと言われている。山浦家は後に、景勝[[側室]]の実家[[四辻家]]出身の山浦光則が家名を継いだ。<!--光則が景国の養子となったのは寛永11年(1635年)に米沢に亡命した後のことですので、景国は既に死去した後である可能性が強いと思うのですが。-->
 
[[Category:戦国武将|やまうら かけくに]]