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'''沖縄軌道'''(おきなわきどう)とは、現在の[[沖縄県]][[与那原町]]と[[沖縄市]]泡瀬を、沖縄本島の東海岸沿いに結んでいた[[馬車鉄道]]、およびその運営会社である。[[太平洋戦争]]が激化した1944年ごろに運行を停止した。
#redirect[[沖縄の鉄道]]
 
==路線データ==
※運行停止時点
 
*路線距離:与那原~泡瀬 17.7km
*軌間:762mm
*駅数:24駅(起終点含む)
*電化区間:なし(全線非電化)
 
==運行形態==
大正末期の1925年4月時点では1日7往復の客車が設定されていた。いずれの列車も起点の与那原で[[沖縄県営鉄道与那原線]]の連絡を受ける形になっている。所要時間は与那原~泡瀬間全線で2時間27分。
 
==歴史==
現在の[[西原町]]にあった製糖工場にサトウキビを運搬するためのトロッコとして計画されたが、製糖期を除くと使い道がなかったため、旅客運送を主目的とした軌道会社が別途設立された。
 
1913年1月に製糖会社の役員らが設立発起人となって[[人車軌道]]の起業を出願し、同年9月に特許を取得。翌1914年3月に'''沖縄人車軌道'''が設立された。その後、同年11月10日に与那原~小那覇間が開業し(手続き上は11月1日開業か)、1916年11月25日までに与那原~泡瀬間の全線が開業している。なお、動力については1914年11月1日に馬力併用の手続きを取っており、開業当初から実態は馬車鉄道だったようである。社名も1915年1月13日に'''沖縄馬車軌道'''に改称しており、1929年10月15日にも再び社名を改めて'''沖縄軌道'''としている。
 
昭和初期には与那原~泡瀬間を結ぶバス路線が開業しているが、沖縄軌道は製糖工場へのサトウキビ搬入代が収入の大半を占めていたせいか廃止されなかった。
 
戦争が激しくなった1944年の中頃には客車運行を休止したと見られ、戦後は復活することなく消滅した。正式な廃止手続きは行われておらず、[[サンフランシスコ講和条約]]が発効した1952年4月28日に[[軌道法]]の適用対象から外れている。
 
*[[1914年]][[3月23日]] 沖縄人車軌道設立。
*[[1914年]][[11月1日]] 馬力併用を申請。
*[[1914年]][[11月10日]] 与那原~小那覇間が開業。
*[[1915年]][[1月13日]] 沖縄馬車軌道に改称。
*[[1915年]][[2月8日]] 小那覇~津覇間が開業。
*[[1915年]][[7月9日]] 津覇~当間間が開業。
*[[1915年]][[10月13日]] 当間~泊間が開業。
*[[1916年]][[4月21日]] 泊~渡口間が開業。
*[[1916年]][[12月9日]] 渡口~泡瀬間が開業(全線開業)。
*[[1929年]][[10月15日]] 沖縄軌道に改称。
*[[1944年]] 運行を停止。
 
==駅一覧==
※運行停止時点
 
与那原(よなばる)‐与原(よーばる)‐我謝(がじゃ)‐小那覇(おなは)‐仲伊保(なかいほ)‐和宇慶(わうけ)‐津覇浜(つははま)‐津覇(つは)-奥間(おくま)‐安里(あさと)‐当間(とーま)‐高江州(たかえす)‐屋宜(やぎ)‐添石(そいし)‐伊舎堂(いさどう)‐泊(とまり)‐久場(くば)‐熱田(あった)‐和仁屋(わにや)‐渡口(とぐち)‐与儀(よぎ)‐比屋根(ひやごん)‐殿内前(とんちのめえ)‐泡瀬(あわせ)
 
==接続路線==
*与那原:[[沖縄県営鉄道与那原線]]
 
==関連項目==
#redirect*[[沖縄の鉄道]]
 
[[category:九州の鉄道路線|おきなわきとう]]
[[category:廃線|おきなわきとう]]