「ティグラネス2世」の版間の差分

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こうして大帝国を打ち立てたティグラネス2世であったが、西方で発生した[[ミトリダテス戦争]]との関係からその拡大政策は頓挫した。同盟者であったポントス王ミトラダテス6世は、周辺属州の支配権を巡って三次に渡る[[古代ローマ|ローマ]]との戦いを繰り広げていたが、最終的な敗北の後アルメニアへと逃げ込んだ。ローマの将軍[[ルキウス・リキニウス・ルクルス|ルクルス]]はミトラダテス6世の引渡しを要求してきたが、ティグラネス2世はこれを拒否してローマに対抗する姿勢を示した。
 
しかしティグラネス2世はローマとの戦いで勝利を収めることはできなかった。[[紀元前1世紀|前69年]]にはティグラノケルタが包囲され、ティグラノス2世はこの新首都を放棄せざるをえなかった([[ティグラノケルタの戦い]])。ティグラネス2世は続く[[紀元前68年]]にも[[アルタクサタの戦い]]でも敗れた。彼はパルティアに援軍を求めたが、同時期にローマもパルティアに同盟を提案しており、当時のパルティア王[[フラーテス3世]]は日和見を決め込んで曖昧な返事しか返してこなかった。続く[[紀元前68年]]にも[[アルタクサタの戦い]]でも敗れた。ルクルスにその後ローマ側ではルクルスが軍隊の進軍反対を受けて撤退したが、アルメニアではティグラネス2世の息子のティグラネス(以下、[[小ティグラネス]])が反乱を起こした。小ティグラネスはパルティア王フラーテス3世に援軍を求め、その結果パルティアがアルメニアに侵攻してきた。ティグラネス2世はこの息子の反乱を鎮圧してパルティアに対抗したが、小ティグラネスは今度はローマの[[将軍]][[ポンペイウス]]の下に逃げ込み彼の支援を求めた。ポンペイウスは小ティグラネスを助けてアルメニア領土をティグラネス2世と小ティグラネスの間で分割するように迫り、ティグラネス2世はこれを受け入れた。
 
この一連の戦いでアルメニア本国以外の全ての征服地を喪失し、紀元前55年に死去した。死後、息子の[[アルタヴァスデス2世]]が跡を継いだ。