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'''吉田 兼直'''(よしだ かねなお、[[延宝]]7年([[1679年]])‐) - [[元文]]4年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]([[1739年]])1[[3298]]))は、[[江戸時代]]中期の武士。赤穂四十七士[[吉田兼亮|吉田忠左衛門兼亮]]の庶子で父たちの本懐後、[[伊豆大島]]に流罪にされた赤穂浪士遺児の一人。幼名は'''伝内'''。通称は'''九郎大夫'''。僧名は'''恵学'''。
 
吉田忠左衛門の四男として生まれる。母は[[熊井新八]]の娘。父や兄の[[吉田兼貞|吉田沢右衛門兼貞]]は吉良邸討ち入りに加わっているが、伝内は加わらなかった。伝内はすでに20を超えているが、庶子であり、部屋住ですらないので浅野家臣の資格がなかったためである。
 
ところが父たちの切腹後の[[元禄]]16年([[1703年]])4月、伝内は一族[[連座]]して[[伊豆大島]]へ流されてしまった。伝内の姉の嫁ぎ先の主家本多家の当主で、遺児たちの遠島を聞いた[[本多忠孝|本多中務大輔]]は、幕府に許可されている持ち込み上限の金20両・米20俵のぎりぎりに近い、金19両米19俵を伝内に与えた。
 
大島では伊豆代官手代の[[小長谷勘左衛門]]の厳しい監視を受けた。しかしその後、浅野内匠頭長矩正室[[瑤泉院]]による赦免運動があったおかげで、宝永3年([[1706年]])6月に赦免。江戸へ帰着したのち、伯母が尼をしていた[[洞雲寺]]において出家。僧恵学となった。しかし[[宝永]]6年([[1709年]])頃には還俗。「吉田九郎大夫兼直」と名乗るようになった。[[元文]]4年([[1739年]])に死去。父や兄と同じ[[泉岳寺]]に葬られた。戒名は雪山霊光信士。
 
大島では伊豆代官手代の[[小長谷勘左衛門]]の厳しい監視を受けた。しかしその後、[[浅野長矩|浅野内匠頭長矩]]正室[[瑤泉院]]による赦免運動があったおかげで、[[宝永]]3年([[1706年]])6月に赦免。江戸へ帰着したのち、伯母が尼をしていた[[洞雲寺]]において出家。僧恵学となった。しかし[[宝永]]6年([[1709年]])頃には還俗。「吉田九郎大夫兼直」と名乗るようになった。[[元文]]4年([[1739(1739]])に死去。父や兄と同じ[[泉岳寺]]に葬られた。戒名は雪山霊光信士。
 
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[[category:吉田氏|かねなお]]
[[category:元禄赤穂事件関係人物|よしたかねなお]]
[[Category:1679年生|よしたかねなお]]
[[Category:1739年没|よしたかねなお]]