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'''吉田 兼直'''(よしだ かねなお、[[延宝]]7年([[1679年]]
吉田忠左衛門の四男として生まれる。母は[[熊井新八]]の娘。父や兄の[[吉田兼貞|吉田沢右衛門兼貞]]は吉良邸討ち入りに加わっているが、伝内は加わらなかった。伝内はすでに20を超えているが、庶子であり、部屋住ですらないので浅野家臣の資格がなかったためである。
ところが父たちの切腹後の[[元禄]]16年([[1703年]])4月、伝内は一族[[連座]]して
大島では伊豆代官手代の[[小長谷勘左衛門]]の厳しい監視を受けた。しかしその後、浅野内匠頭長矩正室[[瑤泉院]]による赦免運動があったおかげで、宝永3年([[1706年]])6月に赦免。江戸へ帰着したのち、伯母が尼をしていた[[洞雲寺]]において出家。僧恵学となった。しかし[[宝永]]6年([[1709年]])頃には還俗。「吉田九郎大夫兼直」と名乗るようになった。[[元文]]4年([[1739年]])に死去。父や兄と同じ[[泉岳寺]]に葬られた。戒名は雪山霊光信士。▼
▲大島では伊豆代官手代の[[小長谷勘左衛門]]の厳しい監視を受けた。しかしその後、[[浅野長矩|浅野内匠頭長矩]]正室[[瑤泉院]]による赦免運動があったおかげで、[[宝永]]3年([[1706年]])6月に赦免。江戸へ帰着したのち、伯母が尼をしていた[[洞雲寺]]において出家。僧恵学となった。しかし
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[[category:吉田氏|かねなお]]
[[category:元禄赤穂事件関係人物
[[Category:1679年生
[[Category:1739年没
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