「アーサー・ラーセン」の版間の差分

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1951年全日本テニス選手権
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翌[[1951年]]、ラーセンはキャリアで唯一の[[1951年全豪テニス選手権|全豪選手権]]に出場し、[[ケン・マグレガー]]との準決勝まで勝ち進んだ。[[1951年]]と[[1952年]]の2年間男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]のアメリカ代表選手を務める。大会前年優勝者として臨んだ[[1951年全米テニス選手権|1951年全米選手権]]で、ラーセンは準決勝で[[フランク・セッジマン]]に 1-6, 2-6, 0-6 のスコアで惨敗した。当時[[オーストラリア]]男子テニス界の第一人者であったセッジマンから、前年王者はわずか3ゲームしか奪えなかったのである。[[1952年]]のデビスカップで、ラーセンは対[[日本]]戦に起用され、シングルス戦で[[隈丸次郎]]と[[宮城淳]]を破ったが、これを最後にデ杯米国代表選手としての起用もなくなってしまう。
 
ラーセンは[[1951年]]、1度[[全日本テニス選手権]]で来日したことがあり、男子シングルス・ダブルスとも決勝に進出した。シングルス決勝では、当時の日本男子のエースだった[[隈丸次郎]]に 4-6, 3-6, 1-6 で敗れて準優勝になったが、隈丸と組んだダブルスで優勝した。
 
[[1954年]]の[[1954年全仏テニス選手権|全仏選手権]]で、ラーセンは2度目の4大大会シングルス決勝進出を決めた。初進出の全仏決勝では、同じアメリカの後輩選手[[トニー・トラバート]]に 4-6, 5-7, 1-6 のストレートで敗れて準優勝に終わる。彼は[[1956年]]までテニス・トーナメントに出場したが、[[1957年]]に自動車事故で頭部に重傷を負い、ここで現役引退を余儀なくされた。[[1969年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。