「聖書無謬説」の版間の差分

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*そして、聖書の「無謬」性のみを主張する立場を、「部分的無誤性」の支持者、そして、双方、すなわち「無謬」「無誤」性を共に受け入れる立場を、「全的無誤性」の支持者と表現するに到った、と言うのが一般的な理解である。しかし、様々な著作におけるこれらの「無誤」、「無謬」の定義は多様で、注意深く読むことが求められている。そもそも二つの概念を分離して論じること自体に無理があることから、[[聖書の無誤性に関するシカゴ声明]]は「全的無誤性」を支持する立場からの声明となっている。
*この立場を取る学者も、[[オリゲネス]]以来、聖書に平行記事間の矛盾など、問題があることに気づいていない訳ではない。ただ、そのような問題を、即、「誤り」(errors)と断定しないで、聖書の「諸現象」(phenomena)と言う表現に置き換え、歴史的・科学的分野での聖書の言及に明らかな誤ちが立証されるか否かを待つという姿勢である。
*聖書に誤りがあると主張する異端や異教徒に対し、[[ユスティノス]]は、その箇所が「わからないと告白する」と言った<ref>『トリフォンとの対話』</ref>。また[[アウグスティヌス]]は、写本の欠陥、翻訳の問題、自分の理解の不足を理由とした<ref>『ヒエロニムス書簡集』</ref>。[[トマス・アクィナス]]は、聖書の真理性を無条件に確信するべきであるとした<ref>『神学大全』</ref>。
 
 
これに相対して、聖書を自由に読もうと主張する[[自由主義神学]]者もいる。その論説の要旨は、聖書を書いた「[[聖書記者]]」自身が人間であり、人間とは、聖書においてが強く語られているように、「愚か」で、絶対ではなく相対で、「限りのある有限な存在」であり、そして、聖書を書いた多数の聖書記者もこの愚かさと、有限を超越できないものだとすれば、神の啓示を受けた「聖書」ですら、「神の筆先」ではなく、人間の主観というフィルターを拭い去ることができずに聖書記者は書いている。しかも、聖書を正典としたのは愚かな人間が開催した会議で、人間が決定したものである。したがって、いたるところに説の違いがあるということを強調しつつ、聖書を歴史的批判的に読むべきだと主張する神学者もいる。その立場はリベラルの[[高等批評]]と呼ばれ、[[文書仮説]]が彼らの定説である。
 
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*この言葉は、キリスト教信者により様々な言い方がなされているので絶対的な概念規定も困難である。つまり、[[日本国憲法]]で保障される[[信仰の自由]]という常識的な観点からすれば、信者が信仰に入る原点的なる信仰告白に帰属する用語であることからして、正典である聖書の位置づけ方、かかわり方、姿勢によって、各々違っているのが現実である。したがって、その表現の方法において、各人各様、信仰の自由に基づいて使用されるので、各論があり、総論的に概念規定できない。よって、言葉の概念の機能にまどわされず、個人の信条により理解することが肝要である。
*なお、聖書無謬説を信仰の絶対的な要件としている教派、信者も多数をしめていることから、これを批判することは、信仰をまで否定するものとして、受け取る側で大きく感情を害する言葉でもあるので、この用語を用いることは慎重をきして、自らの論説を明確にして使用しなければならない。要は、知的な概念規定が難しい、個人の信仰の自由における信念的な用語である。
 
==脚注==
<references />
 
==関連文献==