削除された内容 追加された内容
Point136 (会話 | 投稿記録)
m bot:sty
→‎経歴: 和暦テンプレ
2行目:
 
== 経歴 ==
農業・菅波久助の長子として生まれる。茶山が生まれ育った神辺は、[[山陽道]]の[[宿場町]]として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、[[京都]]の[[那波魯堂]]に[[朱子学]]を学び、[[和田東郭]]に[[古医方]]を学んだ。京都遊学中には[[高葛陂]]の私塾にも通い、[[与謝蕪村]]や[[大典顕常]]などと邂逅した。故郷に帰り、[[{{和暦|1781年]]([[天明]]元年)}}頃、神辺(現在の福山市)に[[私塾]][[黄葉夕陽村舎]]を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。塾は[[{{和暦|1796年]]([[寛政]]8年)}}には[[備後福山藩|福山藩]]の[[郷学]]として認可され'''[[廉塾]]'''と名が改められた。茶山は[[{{和暦|1801年]]([[享和]]元年)}}から福山藩の儒官としての知遇を受け、[[藩校]][[弘道館 (備後福山藩)|弘道館]]にも出講した。[[化政文化]]期の代表的な詩人として全国的にも知られ、[[山陽道]]を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。詩集『黄葉夕陽村舎詩』を発行した。
 
墓所は神辺網付谷
8行目:
廉塾の門人には、[[頼山陽]]・[[北条霞亭]]などがいる。
 
また、「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は[[{{和暦|1953年]]}}に国の[[特別史跡]]に指定された。
 
== 参考文献 ==