「御匣殿 (藤原道隆四女)」の版間の差分
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<ref>『[[権記]]』が記す没年月日および『[[栄花物語]]』「はつはな」の巻が記す没年十七、八から推算して、およそ[[寛和]]元年(985年)または翌年頃の生まれか。しかし、『[[小右記]]』[[正暦]]四年(993年)二月二十二日条によれば、姉2人([[三条天皇]][[東宮]][[女御]]・[[藤原原子|原子]]、[[敦道親王]]室・道隆三女)と同時に[[裳着]]しており、当時の慣習からして10歳以下とは考えにくく、[[天元 (日本)|天元]]の末、[[永観]]の初めに生まれた可能性も大いにある。また、『栄花物語』は、御匣殿が[[寛弘]]元年(1004年)に亡くなったような書き方をしているが、実際には長保4年(1002年)6月3日、2人目の姉原子よりも2ヶ月早く亡くなっている。</ref>)は平安中期、[[一条天皇]]代の[[後宮]]の女官で、[[貞観殿]](別名「御匣殿」)の別当。本名は不詳。中[[関白]][[藤原道隆]]の四女、生母は[[北政所]][[高階成忠]]女[[高階貴子|貴子]]である。
母を同じくする長姉[[藤原定子|定子]](一条天皇[[皇后]])に御匣殿別当として仕え、『[[枕草子]]』にも幾たびか登場する。『[[栄花物語]]』「鳥辺野」の巻によれば、死を予感した定子より姪の[[脩子内親王]]・[[び子内親王]]、甥の[[敦康親王]]の養育を託され、長保2年(1000年)12月に定子が亡くなったのち、3人の遺児の母代として入内した<ref>『[[権記]]』長保三年二月十二日条に故関白四女(御匣殿)出家の記事がある。</ref>。宮たちの世話をしているうちに、姉定子に似通う面影が
==脚注==
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