「レオ・マッケリー」の版間の差分

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[[1937年]]には[[スクリューボール・コメディ]]「新婚道中記」を発表して見事[[アカデミー監督賞]]を獲得、しかし本人としては同じ年の、老夫婦の目を通して社会改良論者的なテーマを盛り込んだ「明日は来らず」の方が自信作であったが、興業的にも惨敗してしまい、マッケリーは「本作の方に賞が与えられるべきだった」と言ったという。ちなみに本作は[[小津安二郎]]の代表作「[[東京物語]]」に大きく影響を与えた作品といわれている。続いて[[1939年]]に[[メロドラマ]]の古典的名作「邂逅(めぐりあい)」を手掛ける。
 
[[1944年]]には当時絶大な人気を誇っていた歌手で俳優としてもミュージカルやコメディに出演していた[[ビング・クロスビー]]を主役に向かえ、下町の教会を舞台にした人情喜劇の傑作「我が道を往く」を監督、映画は大ヒットを記録し、さらにアカデミー賞7部門を獲得し、マッケリーも2度目の監督賞を受賞するなど名声を決定付けた。またこの成功でビング・クロスビーは性格俳優として確固たる地位を築く。この映画のヒットで翌[[1945年]]、主演のクロスビーに[[イングリッド・バーグマン]]を共演に迎えて続編「[[聖メリーの鐘]]」を監督し、前作以上の成功を収める。またこの時期には全米の長者番付第一位に輝いた。
 
1950年代は次第にキャリアが低迷するも、[[1957年]]に「邂逅」を[[ケーリー・グラント]]と[[デボラ・カー]]を起用して自らリメイクした「めぐり逢い」を発表、いささかも演出力が衰えていないことをアピールし、マッケリーとして晩年の傑作となる。しかし、この時期、ハリウッドでは[[赤狩り]]の真っ只中で、この時期の作品のほとんどが反共産主義色の映画だった。「誘惑の夜」が遺作となり、[[1969年]]に死亡するが、それまでの20年間にマッケリーが監督した作品はわずか6本であり、全盛期にキャリアに比べると寂しいものであった。