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[[ウラジーミル・レーニン]]の死後、党内の実権を掌握したスターリンであったが、共産党の中には古参党員を中心にスターリンの暴走を掣肘しようという者が多数存在した。そんな中、[[1934年]]12月に共産党幹部[[セルゲイ・キーロフ]]が、[[レオニード・ニコラエフ]]という青年に[[暗殺]]されるという事件がおこる。この事件については、当時キーロフの存在に脅威を感じるようになっていたスターリンが部下の[[ゲンリフ・ヤゴーダ]]に命じ暗殺させたという説が有力視されているが真相は不明である。
 
スターリンは、この犯人グループは[[トロツキズム|トロツキー一派]]であるというでっちあげをおこない、その[[逮捕]]を口実に、自らの反対派抹殺に乗り出すこととなった。まずレニングラードの共産党関係者が大量に5000人ほど逮捕され、強制収容所へ連行された。さらにかつて反[[レフ・トロツキー|トロツキー]]でスターリンと手を組んでいた大物たち、[[レフ・カーメネフ|カーメネフ]]と[[グリゴリー・ジノヴィエフ|ジノビエフ]]らも「[[合同本部陰謀事件]]」を企んだとして逮捕され、[[1936年]]の第一次[[モスクワ裁判]]にかけて[[銃殺刑]]に処した。先に逮捕されたレニングラード共産党の関係者5000人もこの裁判の後に全員が銃殺刑に処されている。スターリン時代最初の大規模殺戮だった。
 
最初に、つて反[[レフ・トロツキー|トロツキー]]でスターリンと手を組んしこれはま、元党政治局員[[レフ・カーメネフ|カーメネフ]]と[[グリゴリー・ジノヴィエフ|ジノビエフ]]らが逮捕され、[[1936年]]の[[モスクワ裁判]]において[[銃殺刑]]を受けた(合同本部陰謀事件)。口で粛清はこの時点ですでに本格化していたが、その後さらに過激さを増したすことになる。ソ連では1934年7月以来[[内務人民委員部|NKVD]](エヌ・カー・ヴェー・デー)が[[秘密警察]]としての機能を兼務し、一連の粛清の指揮をとっていたが、スターリンはその長官ヤゴーダの取り組み方が手ぬるいと考え、1936年9月にはヤゴーダを解任した(ヤゴーダも[[1937年]]に逮捕され、[[1938年]]3月に銃殺された)。後任の[[ニコライ・エジョフ]]のもとで、粛清の規模は一気に拡大することとなった。
 
==エジョフ体制の成立==