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'''将軍後見職'''(しょうぐんこうけんしょく)は、[[江戸時代]]後期、[[幕末]]に新設された[[政事総裁職]]、[[京都守護職]]と並ぶ[[江戸幕府]]三要職の一つである。
 
[[安政]]6年([[1858年]])、幼少の[[徳川家茂]]が14代[[征夷大将軍|将軍]]に就任したために、同年8月前将軍[[徳川家定]]の遺命と、同じく幼少で将軍に付いた4代将軍[[徳川家綱|家綱]]時の[[保科正之]]・11代将軍[[徳川家斉|家斉]]における[[松平定信]]時の先例を名目に[[御三卿]]の[[田安慶頼]]が任命された。ただし、実際には[[大老]][[井伊直弼]]が形式的に擁立したもので正式な役職でもなく、実権も有しなかった。
 
ところが、[[文久]]2年([[1562年]])5月、[[朝廷]]内部に幕府内の親井伊派の処分が要求する動きがあり、その対応の一環として「家茂の成人」を理由に井伊に擁立された田安慶頼が後見職から退いた。続いて朝廷より、[[一橋慶喜]]を幕府の正式な役職としての将軍後見職に任じるように[[勅諚]]が下された。これを受けて同年7月に慶喜が幕府の正式な役職として新設された将軍後見職に任命された。[[元治]]元年([[1864年]])3月、慶喜が[[禁裏守衛総督]]に転じたために廃止された。