「寺本廃寺」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
見出し他 |
m →概要 |
||
2行目:
== 概要 ==
県中部、[[甲府盆地]]の北縁部
[[6世紀]]中頃に日本へ伝来した[[仏教]]が[[甲斐国]]へも伝えられていたことを示す遺跡。同時期の古代寺院は他に見られないが、県内では終末期の古墳から[[仏教文化]]の影響が見られ、7世紀には[[甲斐市]]天狗沢(旧[[中巨摩郡]][[敷島町]])の[[天狗沢瓦窯跡]]から供給先は不明であるが古代瓦が出土している。[[8世紀]]初頭には甲府市横根町の[[東畑遺跡]]から小金銅仏(観音菩薩立像)が出土しており、[[甲斐国分寺]]・[[甲斐国分尼寺|国分尼寺]]をはじめ、各地に寺院が建立されはじめる。造営者は不明だが、[[大伴氏]]である可能性も考えられている。隣接する[[甲府市]]東部の川田町には古代寺院へ[[瓦]]を供給していたと考えられている[[川田瓦窯跡]]や上土器遺跡があり、寺本廃寺と共通する古代瓦が出土している。
かつては寺本廃寺の性格をめぐっては変遷があり、初期[[国分寺]]や[[国分尼寺]]、[[郡寺]]や[[氏寺]]、国府附属寺院であるなどの諸説があったが、現在では単鳳環頭太刀柄頭を副葬された春日居古墳群の有力首長の氏寺か国府附属寺院であると考えられている。『[[甲斐国志]]』によれば江戸時代までは国分尼寺と考えられていたが、1938年(昭和13年)に大場磐雄『国分寺の研究』により否定された。
13行目:
出土遺物では[[瓦]]類が多く、平瓦、丸瓦、軒丸瓦、軒平瓦など。[[軒丸瓦]]は文様から8形式に、軒平瓦は4形式に分類される。また、「五千四百」と記された文字瓦も1点出土している。軒丸瓦の組合せ様式から7世紀の創建で8世紀中頃に補修されたと考えられており、白鳳期の単弁八葉蓮華文軒丸瓦と四十狐文軒平瓦の組合せと、天平期の複弁六葉蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦の組合せが見られる土器は弥生時代から幅広く出土し、寺域内では10世紀のものが多く、寺域外からは11世紀以降の土器が多く出土する。[[僧房]]推定地からは[[墨書土器]]や[[燈明皿]]、塑像仏像の破片、[[丸玉]]、[[鉄釘]]、[[紡錘車]]、[[古銭]]などが出土している。
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
|