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それから数ヵ月後にイランに帰国し、[[1973年]]にペルシア国立音楽院院長に就任し、[[1974年]]から[[1977年]]まで[[テヘラン]]音楽院院長を務めた。この間に、イランの新進気鋭の音楽家と共同で青少年オーケストラを設立、その音楽監督と終身指揮者に着任。テヘラン交響楽団やイラン国立放送室内管弦楽団、テヘラン歌劇場管弦楽団を指揮した。
 
[[1977年]]に再び渡欧、同年に[[フランス]]の[[ブザンソン]]指揮者コンクールの覇者となり、[[1978年]]には国際[[ジュネーヴ]]指揮コンクールで銀メダルを獲得。同年、[[ニュルンベルク]]交響楽団を指揮して、「ペルシャの交響詩 ''Symphonische Dichtungen aus Persien'' 」と題した3枚組のLPを発表、自作を含む6人のイラン出身の作曲家による管弦楽曲を録音した。
 
[[1979年]]は、招かれて[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]を指揮、生涯でもっとも重大な転機となる。[[1980年]]に[[ザルツブルク音楽祭]]では、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]の助手を務めた。[[1988年]]から[[1996年]]まで、[[ブリュッセル]]のBRTN(ベルギー国営放送局)フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、任期中にディスカヴァー・レーベルを設立して数々の重要な録音を残すとともに、数々の無名ながら実力ある演奏家を発掘、また、メジャー・レーベルから廃盤となった名演の復活にも取り組んだ(同レーベルはコッホ・インターナショナルに吸収された)。ディスカヴァー・レーベルにおけるベルギーBRTNフィルとの録音は[[キングレコード]]により、「[[新世紀エヴァンゲリオン|エヴァンゲリオン・クラシック]]」シリーズの音源に転用された。現在はザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任している。また、ベルギーBRTNフィル退任後の[[1997年]]には、[[イラン革命]]によって欧米に亡命したペルシャ人演奏家を結集して、ペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団を創設した。